第五十一話
斥候が浮かべた笑みは、少年の目にも映っていた。
少年は確信していた。奥の手を隠している、と。だが、手掛かりがわからない。
そんな事情を敵が待ってくれるわけもない。
(……これは)
異変に気付いた時、少年の顔から血の気が引いた。
眼前に映るのは底の無い大穴——廃ビルの跡地。その表面を全て覆っていたはずなのに、忽然と消えた人喰い花。
少年はもう一度斥候を見直す。斥候は、頬が裂けるほどに口角を吊り上げて、いっそ絶頂にも似た恍惚とした笑みを浮かべ、地上を見下ろしていた。釣られて少年は足元に視線を落とし、
「……くそ」
見失ったはずの人喰い花が大口を開けて少年を覗いていた。その瞬間を見計らったように、足元を支えていた触手はするりと引っ込む。宙に浮かされ行き場を失った少年に残されたのは、二度と出られない深淵に喰われる最期だった。
(死ぬのか)
実に呆気ない。頭が真っ白になるとか、幸せだった日々を思い出すとか、そんな余韻は何一つ無く、ただ粛々と自分が底に落ちるまでを受け入れるのみ。
逃げ場のない悟りの境地で、少年の心を満たしたのは恐怖ではない。
(最後の一瞬だけ我慢すればいい。そう考えれば、この結末は不幸じゃないのかもしれない)
終わりという安心感だった。
深淵を見つめながら少年は人生を総括する。死んだ方がマシだったと。
気が付けばボロ屋敷のベッドで身を丸くし、ただ当てもなく天井を見上げるだけの毎日。頼れる人間も居ないので早々に飢えの苦しみが迫り、何かを食べないと死んでしまうので、数少ない記憶の一つである生活の知識を頼りに街道を徘徊し、獣を殺して、食って生き永らえた。
残された記憶が正しければ、この力は英雄と呼ばれ、人から称えられるものらしい。
しかし、現実はどうだろうか。ただ、道行く獣を殺し、路上で食用の雑草をかき集め、寝床もそこらの木を折って、記憶から見様見真似で作り上げた。ガラクタとまるで変わらない出来だった。しかし、物乞いできる相手も現れないので、ただひとり愚痴をこぼすこともできず、粛々と貧しさを耐える毎日。
自分が不幸であることも知らず、誰かに教えられることもせず、ただ息苦しさを抱え、これが生きることなのだと誤解を強いられて生きて来た。
(幸せ、だったなあ)
それでも少年に後悔は無かった。色味の欠片もないどす黒く塗りつぶされた人生の中に、たった一つ奇跡が起きたのだ。
自分よりも頭一つ大きくて、黒い髪に黒い瞳、黒いローブと怪しさの塊でしかないのに、出涸らしの自分よりもずっと明るくて、この世界のことをあまり知らない。子供っぽさが垣間見えるのに、どこか世話焼きな若い女性。
夢に現れた時は自分と変わりない子供であったはずなのに、その女性は夢で見た時よりもずっと大人びて見えた。
(この人なら、って思ってしまった)
英雄の記憶を頼りに、その人物の名前は『アンジェリカ』という名だと知る。当時の英雄はアンジェリカとの思い出を大切にしており、魔王を倒すためだけの旅程で、星空を眺めながら彼女を思う姿が時折映し出された。英雄の知識は継承されるが、その時に抱えた思念も、直近であればわずかに受け継がれるのだ。そんな先代の英雄が過去を偲ぶ姿で夢に現れた時、少年は涙した。
どうしようもない宿命を互いに背負っているはずなのに、片や誰かに愛され、片や人知れず飢えをしのぐ毎日。
『どうして、自分だけ』
疑問を口にすることは少なくなかった。人は他人と比べる習性を持つ。少年も例外ではない。幸せな思い出を見せられてしまえば、嫌でも今と比べてしまう。意味が無いとわかっていても、根拠のないはりぼての希望だけが膨れ上がり、到達できない現実にまた空しさを覚える。
希望が絶望に変わるのに、そう時間は要さない。例外なく、少年はさらに生きることが苦しくなってしまった。
それでもしばらくは耐えた。しかし、エトアル街道は名ばかりの街道。行き付く先は辺境の小さな村か他国への国境のみ、人が訪れることは滅多に無い。奇跡を待ちわびて、月日を重ねる度に空しさだけが募った。平常心が喰われてしまうほどに。
(もう、全部捨ててしまおう)
絶望した少年はぼろ家の扉を開け、崖際にまで足を運んだ。水平線の上で夕日が煌びやかに輝いている。今すぐにでも人を殺してしまいそうな目で一瞥して、その一瞬全てで未練を断ち切り、穏やかさを孕んだ笑顔の仮面を張り付けて、ゆっくりと瞳を閉じた。吹きすさぶ風に心地よさを感じる間に、一歩踏み出そうとした。
その時だった。不意に腕を引っ張られ、強引に引き寄せられた。正体を探る暇もなく、されるがままに、少年はそのまま地べたに倒れ込む。
自害ですら邪魔されるのか、と光を失った虚ろな瞳が映したのは、いつか夢に現れたあの黒髪の、しかし夢で見たよりも成長した女性の姿。
(この日から、全てが始まったんだ)
声を掛けてしまった。すぐに後悔した。
英雄という決まり切った最期を抱えた自分自身が、そうさせた。今すぐにでも無かったことにしようとしたが、寂しさを埋めたいという欲は止まらずに暴走を続ける。何の奇跡か、話を聞いて欲しいという要望に彼女は答えてくれたのである。
そして、彼女の事情を聞いたうえで身の上を話した。彼女が追っているのは、いずれ死ぬ宿命を負った亡き人の面影でしかないと。自分が英雄で、いつ死んでもおかしくない存在だから、誰よりもわかっているのだと。
彼女は激昂した。そんな風に言うなと怒鳴りつけた。今にして振り返れば、当たり前の話だ、とエウレルは自嘲する。それでも、自分に興味を示してくれた稀有な存在を、みすみす死地に追いやりたくなかった。
(なんで、今になって思い出すんだろう)
そんな少年に、彼女——アンジェリカは歩み寄り、抱きしめてくれたのである。
少年は、彼女がそんなことをした理由を知らなかった。
少年の記憶に抱擁の感触は残されていなかった。
少年には、誰かに大切にされるという記憶が残されていなかった。
少年には理解が出来なかった。
いずれ死ぬであろう未来を抱え、その通りに死んでいった人間の為に、いつ死んでもおかしくない世界を渡り歩こうとする彼女が。
終わりのない旅で、何も得られないかもしれないというのに、旅を続けると決意した彼女が。
そんな命がけの旅に、他人でしかない自分に一緒に行こうと言ってくれた彼女が。
だから、知りたくなった。何がアンジェリカを突き動かすのかを。
そして、いつしか惹かれるようになった。
あんな風に生きてみたい、と。あんな風に夢を語ってみたいと。
小さな夢を持った。
(でも、全部終わりだ)
失敗した。
英雄の力で彼女のすべてを守れると息巻いた。
自分が身を呈していれば、人を救えると本気で思っていた。
とんだ思い上がりだった。
少年にはもう生きる気力が無かった。いち早く死にたかった。路上で斥候に襲われて殺されるくらいでちょうど良かった。大切にされることが申し訳なくて仕方なかった。突き放された時は、そんなものかと納得した。
でも、そんな後悔もこれでおしまい。
(やっとだ。やっと楽になれる)
もう少し、幸せでいたかった。
そんな小さな後悔を胸に抱え、少年は目を閉じて。
閉じた瞳の向こうで、一筋の光が走った。




