第四十六話
恐ろしいものを前にした時、自然と足が竦む。
冒険記に出てくる凄い人たちはなんてことなく跳ねのけてしまうんだろうけど、少なくともわたしにそんな力はない。人に啖呵を切ってみたところで、本当はちっぽけな自分をさらけ出しているみたいで怖くて仕方がない。
気持ち一つでこの恐怖を拭い去れたなら、どれだけ気楽だっただろう。ロイに付いて行くと決めていれば、たとえ他の誰かに止められたとしても村を抜け出していれば、こんな後悔は抱えなかったのかもしれない。
「わたし、人に誇れるような生き方なんてしてない。けど、きっと人よりわかっていることがあるんです」
こんなもの自己満足だ。
それでも言わずにはいられなかった。
「好きな人がいつまでも居てくれると思ってた。でも、それはただの幻想だ。ささいなきっかけ一つで幸せは簡単に崩れる。そして、二度と戻らない。人は失わないと気づかない、自分が幸せだったってことに」
知らなかったよ、わたしはあなたを失ってしまったってことに。それに気づくまでに何年もかかってしまったよ。
全てを知った時には、全部が遅かったよ。貴方はもう遠くにいってしまった。もう二度と会えないとわかって、ずっと後悔しているんだ。
少しでも貴方が知りたくて、その道をなぞれば傍にいられる気がして、それなのに貴方は遠い。知れば知るほど遠くなる。
だから、
「知らないうちにいなくなってるなんて嫌だ。せめて、今持っている幸せだけは捨てたくない」
足に力は入らない。思い一つ口にするだけで、立つことすらままならない。そんな情けないわたしの頬に何かが伝う。暖かくて、透明で、思い出すのはいつまでも泣き虫なわたし。
「だから、どうかわたしの道を通してくれませんか」
等身大のわたしで頭を下げた。
何も言わない時間が続いた。遠くから川のせせらぎの音がした。冷えた風が頬を撫でた。思わず身震いしそうになった。自分の中で何かが揺らぐのを感じた。
全部無視した。
意地だ、こんなものに理由なんてない。
「アンジェリカさん」
「はい」
呼ばれて顔を上げる。冷たい眼光は依然としてむき出しの心を射抜く。
「貴女は、死にに行くつもりですか」
「……いいえ」
「たいせつな人を助けるために、身を投げ出す覚悟はありますか」
「……いいえ」
「そのような心持ちで、この理不尽極まる世を渡れると本気でお思いですか」
そんなの、決まってる。
「怖いです。怖くて仕方ないです。明日には誰かが居なくなるかもしれない。自分が居なくなるかもしれない。自分の全てが正しいって思えるほど、わたしはわたしを信じられない。……それでも、意地を通す。生きるってそういうことだと思いました」
ああ、本当に大人気ない。
「だから、この怖さを忘れてしまわないように、迷って、怯えて、後悔して、反省して、絶対に無くさないように、頑張って生きます」
やっぱり、わたしはロイやエウレルみたいにすごくない。持っている人は階段を飛ばすみたく先に進む。日に日に手が届かなくなっていくみたいで、わたしと貴方では分かり合えないって突きつけられてるみたいで虚しくなる。
キョウコさんはわたしの吐き出した決意を聞き届けると、ゆっくりと立ち上がり、何も言わずにわたしの隣に腰を下ろした。
瞳が向けられる。目は閉じなかった。瞬きも忘れて、ずっと彼女と目を交わした。
それからしばらくした後、ひんやりとした熱が頬に伝わって、
「……かなわないですね」
頬にやわらかな感触がにじんだ。瞳を閉じてもう一度開くと、やさしく微笑んだキョウコさんがわたしの頬から涙を拭き取ってくれていた。
かわいらしい花柄の布だった。霞がかった月のせいだろうか、きれいな着物と見比べると、らしくないように見える。
「かつての私を見ているようだ」
「えっ」
「私にもあったのです。何もない世の中で、ただ一つの希望を頼りに歩き続けた。そんな日々が」
やさしい微笑みが、目を伏せた。
「夫を探していました。大災害で夫とはぐれた私は、カザリスで目覚めました。渋谷という過去を生きた身。価値観も合わないこの世界で、この子を育て生きるには、夫との再会という光を追うしかありませんでした」
このハンカチも、夫からの貰い物なのです。そう言って、大事に握り締めると、
「街中を歩き回りました。毎日、毎日、働いて、育てて、寝る間も惜しんで夫を探しました。いつか見つかると思えば、いつかまた会えると思えば苦ではありませんでした。今にして思えば、寂しさを紛らわせたくもあったのかもしれません」
物憂げに笑ってみせた。目は笑っていなかった。
「現実というのはあまりに残酷だ。もう魔獣に至る病はカザリスを浸食していた。ようやくめぐり会えたと思えば、あの人はもう人で無くなっていた。瞳を赤く染め、獣を彷彿とさせる化け物へと変貌していたッ」
悲しみは空しい残響へと変わって、
「私は見届けるしかなかった。一つの文明の終わりを、光が消えゆく様を。せめて、あの頃を忘れずにいよう。失ってしまったら、本当に生きていけないと思ったから。だから、この形を留めたくて絶界の湖という小さな箱庭を作り上げた」
光の届かない底に沈めた。
「一堂に会さず、世を捨て、人を捨て、希望を捨て、今を留めることを選んだ……貴女を引き留めてしまった。貴女の未来を奪おうとしてしまった。なんて……なんて、愚かな女だっ」
そうして閉じこもったあなたは、こんなにきれいに繕いながら、人知れず泣いていたんですね。
そんな風に思って欲しくない。それだけが言いたいのに、伝えたいものは安っぽさが際立つものばかり。もっと言葉を知っていたなら、もっと世界を知っていたなら、もっと自分に力があれば。そんな考えがいくらでも過っては頭の中を駆け巡る。
そういう人生ばかり生きて来た。見送るだけの毎日だった。流されるだけの毎日だった。
何が邪魔をさせないだ。わたしはあなたよりも、ずっと小さな人間なのに。
「愚かなんかじゃない」
それでも、伝えなければならない。
「キョウコさんはやり切ったんだ。悲しい終わりだったのかもしれないけど、最後まで諦めないでやり切った。そんな人にわたしは愚かだなんて言えないよ」
伝えたいんだ。あなたは本当にすごいんだと。
「わたしが証明します。何年、何十年かかっても、絶対、またこの場所に戻ります。だからどうか、一周回ったわたしであなたとお話させてください」
上手く言えたかわからない、気持ちそのままで伝えてしまったから。ひょっとしたら恥ずかしいことを口走ったかも。
振り返って情けなくなるわたしを、キョウコさんは、きっとお母さんのようなやさしさで笑ってくれて、
「……やくそく、ですよ?」
「はい」
また一つ約束を背負うことになった。それでも、重たくはない。
あなたが笑ってくれるのなら、きっとそれで十分だ。




