第三十九話
雨粒が頬を打った。
ひとつじゃない。いくつもの、だれかの、みんなの、声にならない叫びが滴り落ちて。
おそらく叫びのような雨粒だなんて、へたくそな比喩にでも頼らないと聞き取れないどこまでも他人事な十八歳の女が、ひとり想像で生み出した感傷に浸って、全てを受け止めた気になって、虚しさとかいう安い表現でこのどうしようもない感傷を収めようとする。
どこまでもちいさくて、よわっちくて、同情できた気になっている自分が。
「……なんなんだよ」
そんな世界が、自分が。
「……どうして。どうして、こんなに世界は残酷になれるんだよ!!」
あまりにも、許せなかった。
その場でくずれ落ちて呆然としていると、男の人がぽつんと突っ立っていた。そして、目が合うと、ふらついた足取りでわたしに近寄ろうとした。
どうしようもなく赤くてうつろな目だった。光を宿すと、毛むくじゃらの四つ足の化け物へと姿を変えて、気が狂ったようにばたついて襲い掛かって来た。
「な、なにあれ……なにあれえ!?」
「下がってて。わたしがどうにかする」
「で、でも」
「――いいからっ!!」
何に怒っているんだ。わたしは、ただの通りすがりだ。この人たちの苦しみなんて知らないし、この人たちの悲しみも知らない。何かを感じているのかすらもわからない。
『あれを、人間と呼べるのでしょうか』
わからない、わからないよ。
あれを魔獣と呼んでいいのか。あれを、敵と呼んでいいのか。
「加速しろッ!!」
取り囲む風は吹き荒れて、暴れ狂う。触れたものを壊してしまうくらいに。
暴風で先が見えなくなった。それがなんだ、止まってたまるか。
唸り声はやかましく耳を荒らす風音をかきけして、偉そうに語った絵空事を塗りつぶす。それでも止まる気はない。
「ギイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「加速しろッ!! 加速しろッ!! 加速しろッ!!」
詠唱に呼応して暴風は勢力を増す。もう何も見えない、聞こえない。
前に進む。それだけのために嫌な物は全部ふたをして、遠ざけて、はじき返して。全部、なかったことにするんだ。そうしないと、生きていけないからッ!!
どうしようもなく辛かった。内にこだまする悪意ある言葉たちが責め立てるみたいで。
それすらも全て飲み込んで、踏み出す力に変えて、もう一度お父さんに会うんだ。
夢を叶えたわたしで、会うんだ!!
「死にたくないなら、道を開けて。聞こえないとか、そんなの知らない。見えるでしょ。あなたたちの目で、ちゃんと見て、ちゃんと感じて!!」
「お姉ちゃん……」
「わたしは必ず生きて帰る。絶対に、絶対にだ!!」
血を吐くような叫びのあと、右手に小さなぬくもりを感じた。振り向けば、頼れる小さな勇者がそっと握ってくれていた。ひかえめで、それでもどこまでも安心させてくれるやさしい笑みで、彼は支えてくれていた。
「だいじょうぶです。何があっても、道はぼくが切り開く――」
「……エウレル?」
「任せてください。必ず、貴女を生かしてみせます」
力強い宣言をしてみせたエウレルは、その場で小さくかがむと、放たれた矢のように物凄い速さでジャンプした。思わず立ち止まるくらい、見上げるほど遠くまで高く飛ぶと、両手を大の字に拡げ、
「神の剣」
眩い光が一帯を包んだ。次第にそれは閉じた瞼を越え、痛いくらいの輝きを放って、最後には音もなく消え去った。
淡く光る小さな少年は、わたしたちの元へと着地すると、
「アンジェリカさん。もう大丈夫です」
「……本当に?」
「ええ、全てぼくが掃いました」
少年の言うとおり、風よ纏えを解く。
穏やかな光に照らされる陸橋が見えた。その中で、たくさんの魔獣が地に伏せて倒れていた。空にまで届いたのだろうか、羽を生やした魔獣もその中には居た。
「……ころしちゃったの?」
雨音はしない。自分の震えだけがはっきりと、聞こえた。
「せめて、形だけは残しました」
「どうして、どうして……」
「言ったでしょう。貴女はぼくが守るって」
見たくなかった。みんな倒れて、みんなこと切れて、みんないなくなる。
そんな悪夢みたいなものから目を逸らした。その先は、
「あ、ああ……」
黄金色の光で塗りたくったような、分厚い雲の輝き。あんなにうるさかった雨音はぴたりと止んで、見下ろすことなく、ずっと見ていたくなるようなきれいな光が、ただただ空を照らしていた。
何も出来なかった。また、この子の手を血で汚してしまった。あれだけ力入れて踏み出していたはずの足は行き場をなくして、また崩れ落ちてしまった。
「ねえ、お姉ちゃん。なにが、おきたの?」
何も知らない子供のとまどいが、何も出来なかった女の弱いところに突き刺さった。かける言葉を探そうとして、それでも頭は真っ白だから空をつかむみたいにからぶった。
「ぼくが、ころした」
「――言わないでっ!!」
「……もう、覚悟は出来てますよ」
そんな覚悟をしてほしくないって、何度も、何度も言ったのに。
わかってるよ、そうさせたのはわたしだ。
「……おかあさんは、いるかな?」
「ううん、いないみたい」
「そっか、よかった」
知らなくていい。この子は、寂しさと戦っている。それ以上の辛い現実を、ただの旅人が見せてやる必要はない。
「お兄ちゃんがね、寝かせて……休ませてくれたんだよ」
「どうして?」
「ずっと、外にいるのはつらいでしょ」
「じゃあ、やっぱりおかあさんは」
「そうだよ。今もとてもたいへんだと思う。だから――」
せいいっぱい目を閉じて、女の子の声に向かって微笑みを作る。
「見つけてあげよう。わたしたちで」
自分じゃない誰かがしゃべってるみたいだった。




