第三十四話
雨が地面を打つ音がする。一面壁に覆われたこの部屋の中で一つの音が響けば、すぐに反響し合って部屋一体に満たされた。
エウレルは寝息を立てて静かに眠っている。時折辛そうな顔こそするが、少なくとも倒れた時よりは血色が良い。無理をさせてしまったことを申し訳ないと思いつつ、回復の兆しが見え始めたのが救いだった。
だが、これで仕事が終わったわけじゃない。冒険記の下巻が手に入ったんだ。読み進めて、早く頭に叩き込まないといけない。
「はあ、やっぱり旅って大変だ」
誰に聞かれるでもない弱音は、雨音に飲み込まれていった。でも、何故だろう。どうしようもなく寂しいという気持ちは薄れている気がする。
受け取った冒険記の下巻を手に取り、ページをめくっていく。良かった、アクテリスよりも奥に進んでいた。そこでふと考える。
アクテリスに着いたらどうする?
正直、到着することに必死すぎて、あまり考えられてなかった。大きな国に行けばなんとかなると思ってるけど、目的地はいくつか持っていた方が良い気がする。
「えーっと、アクテリスを越えると国境があるんだね。……トレリア公国、あとはザルツ帝国。初めて聞いたな」
下巻で出て来た大きな国は、トレリア公国、ザルツ帝国、セパルタス合衆国。
トレリア公国はアクテリスと似たような交易都市を持っているみたい。ひと際澄んだ湖があって、そこが旅の名所になっているそう。
ザルツ帝国は北方に位置する軍事国家。色々な所に出向いては領地を拡大しているという。帝国軍と鉢合わせないよう気を付けろ。と記されていた。
セパルタス合衆国は色々な人種が共同で生活している珍しい国。どうやらそこに居る人しか使えない固有の能力だったりがあるみたい。
「うーん、ザルツ帝国かぁ。今もあるのかな。地理学には……うん、あるね。ちょっと気を付けよう」
出会っていきなり襲われたくないし。
冒険記では、情報を集めるために大きな国を渡り歩く場面がいくつかあった。なんでも、発展している国にはお金持ちが多いから情報が集まりやすいようだ。
実際、ロイの報せもアクテリスの行商人から届いた。情報自体の行き来は現実でも多いのかもしれない。
「それにしても、この冒険記って本当に旅した人が書いたのかな」
今とは時代が違うのかもしれないけど、世界のあちこちを渡り歩いたってことだよね。
「……そうだよね」
この人たちはわたしたちのためになんて旅してない。旅の記録を付けた理由だって何でなのかはわからない。そもそも関心だって持ったことは無い。道中のやり取りにいいなと思うことはあっても、結局羨ましくなって、あまり見ないようにしてたんだよね。
それでも、わたしは生きるためにこの本を手に取った。そして、彼らとは違う道を歩いている。
きっと、わたしのための本じゃない。
それでも、わたしはこの人たちの記録に救われている。
「何を思って、何を見て、何を知ったのか。それを伝えるために――」
もしも、わたしが見たもの、聞いたものを形に出来るとしたら。
「……なんて、流石にいろんな人に見られるのは恥ずかしいよ。お父さんにお話しできればそれでいいもの」
楽しいだけの旅じゃない。いつまで続くかわからない。ゴールが何かもわからない。そんな果てしない旅に足を踏み入れたわたし。
そして過るのは嫌な予感。
もしも、アクテリスにわたしを導く手掛かりが無かったら。
もしも、この旅の終わりなんてなくて、死ぬまで続いてしまったら。
もしも、この旅が終わる前に、みんな居なくなってしまったら。
「やめよう」
それからは彼らの経路を辿ることに専念した。アクテリスに近い栄えた場所だと、トレリア公国がよさそうだ。経済もそこそこ発展しているようだし、何よりアクテリスみたいに交易都市を持っていそうなのが良い。
しばらくはアクテリスで情報を集めて、目ぼしいものが無ければトレリア公国に移動する。エウレルがどこを目指しているのかも聞かないとだけど、当面の指針は決まった気がする。
「せめて、アクテリスに着いたらゆっくり出来れば良いけど」
その時、ぐうとお腹が泣いた。
ふいにやってきたものだから恥ずかしくなったけど、やっぱり誰も居ないようなので安心。ほっと一息つきながら、エウレルの様子を確認してみる。
「よかった。顔色も大分戻って来たかも」
普段の顔色に戻って来た気がする。額にもう一度手を当ててみたが、熱は引いたみたいだ。
このまま今日、明日は安静にして、その翌日に出発。そうすればこの暗く気が滅入りそうな旧都も問題なく脱出できるはず。あの子を置いていくのはちょっと気が引けるけど、元気であればいつかは会えるはず。
そうと決まれば、
「ご飯にしよっか」
鞄から非常食を取り出し、口に含む。今日は干し肉。うん、道中食べずに残しておいて良かった。ゆっくり噛み締めるように食べて、できるだけ消費を防ぐ。
エウレルの分もちゃんと残っている。後で分けてあげないとね。
「明日もがんばろう」




