第三十三話
「しぶや……? 珍しい名前だね」
「やっぱそうなんだよね。アクテリスとか、他の国の名前と違うし」
「他の国のことも知ってるの?」
「地図とか、冒険記とかで見たことがあるくらいだけどね」
ぼうけんき……あの、冒険記だよね。ひょっとして、
「ひょっとしてさ、『ハーランドの記録』だったりする?」
「そうだよ。知ってるの?」
知ってるも何も。
仲間が増えたみたいな嬉しさから、空回って鞄から冒険記を取り出してしまう。そこではっとして鞄に戻そうとしたけど、少しだけ悩んで、気づけば好奇心が冒険記を床に差し出していた。しまった、と思った時には色々ともう遅かった。
「……持ってきたんだ」
「ほんとだ!! え、しかも上巻だよね!? あ、表紙って鷲の絵なんだ!! 下巻とは違うんだねえ」
「えっ、下巻持ってるの!?」
「持ってるよ!! ひょっとして、下巻はまだ見たことない?」
「うん。上巻しか持ってないんだ」
「……見る?」
「見たい!!」
勢いあまってお願いしてしまった。何をやってるんだと頭を抱えそうになったけど、女の子は「じゃあ、取ってくるからしばらく待ってて」と言って、扉が閉じる音がした。恐る恐る振り向くと、誰も居なかった。本当に出て行ってしまったらしい。
それにしても、あの子の言葉が本当なら、やっぱりかなり嬉しい。旅を始める為の勉強用具として使わせてもらってたんだけど、友情だったり、別れだったり、戦いだったり。勉強にもなるけど、何より泣けるところが多いんだよね。
しばらくすると、また扉が開いたので、慌てて目を下に降ろす。
「持ってきたよ!!」
そう言って、女の子は床に冒険記の下巻を差し出した。
「えっ、これは……」
「見ていいよ!!」
「さすがにお部屋まで借りさせてもらって、そこまでしてもらうのは悪いんじゃ」
「いいの!! 誰かとお話できるのは、やっぱり楽しいし!!」
トーンの上がった声色には、見なくてもわかるくらいの嬉しさがにじみ出ている気がした。
「じゃ、じゃあさ。ここに居る間、読ませてもらっていい? その代わり、上巻は読んでもらっていいからさ」
「いいの!? わーい、やっと見ることが出来るんだ!!」
そう言うと、とても嬉しそうに喜ぶ声が部屋の中に響き渡って、しばらくするとすすり泣くような音が聞こえ始めた。
「だ、だいじょうぶ? 何か悪いことでもあった?」
「ちがうの。ちがうのっ。あたしは外に出ることができないから。もう、一生見ることは出来ないんじゃないかって。諦めてたんだあ」
胸がきゅっと締め付けられた。
そうか、この子はずっと長い間、誰ともこんな話ができなかったんだ。
「わたしが居る間は、好きなだけ読んでいいよ」
「ほんとお!?」
「うん。せっかくだからさ、たまにお話しようよ。どこがおもしろかったとか、こういうところいいよね、とか。わたしも下巻は初めて見るからさ」
「やりたい!! やりたい!! じゃあ、急いで見なくっちゃ!!」
そう言って、また扉がまたバタンと閉じられた。
静かになった部屋に寂しさは感じられない。ただ、人の喜ぶ声を聞けたことが嬉しかった。エウレルと過ごした生活も、最初はやり場に困っていたけど、後から言葉を交わすことによって、彼が何を思いどう過ごしているのかが少しずつ見えて来た。
あの子ともそういう風に過ごせたなら。
「やっぱり、人とお話できるのはいいね」
もっといろんなことを話したい。いろんな所に行けば、いろんなことが知れるのだろうか。
「……アンジェリカさん」
声をたどると、エウレルが息を荒げながら、うっすら目を開けてこっちを見ていた。
「だいじょうぶ? ちゃんと寝てなきゃ」
「すみません……なにから、なにまで」
「いいから。落ち着くまでゆっくり休んで」
しかし、エウレルはのろりと体を起こすと、顔色の悪いまま、ぽつりとつぶやいた。
「お話は、出来たんですか?」
「あの子のこと? うん、どうやらわたしと同じ冒険記読んでるみたいでね。いろいろと話が合いそうなんだ」
「そうですか……、それは、よかった」
やつれながらも笑って見せるこの子は、本当にやさしい子なんだと思う。
「ちょっと話してもいい?」
そう尋ねると、エウレルは咳をしながらも「どうぞ」と言ってくれた。寝ててだいじょうぶだよ。と寝かしつけて、さっきの一連のやり取りを話してみた。
「やっぱりさ、人とお話するっていうのは良いね。なんていうんだろう、やっぱりひとりじゃないんだなって思える」
「それは、ぼくもそう思います」
「最近はエウレルがお話に付き合ってくれるじゃない? だから、気が紛れるんだけどさ。ふいに来るんだ、やっぱり、その――寂しさが、さ」
「誰かと話していないと、胸にすきま風でも吹いたみたいにつらくなって、苦しくなるんだ。昔はそんなことなかったのにね。なんでだろうね……」
自分でも余計なことを言ってるな、と思う。
「だからさ、怖いんだ」
「……怖い?」
「もしも、あの子が魔獣だったら」
あんな風にやさしくしてくれる子が、目を合わせるだけで恐ろしい魔獣に変わってしまったら。考えるだけで嫌になる、そんなバカなことを考えるなって誰かに叱ってほしいくらいだ。
それでも、わたし達は見てしまった。あの路上で化け物に変身する人の姿を。
「……いざという時は、ぼくが倒します」
「駄目だよ、それは」
「――だから、アンジェリカさんは、あの子が変わってしまわないように気を付けてください。ぼくも気を付けますので」
なんで、
「なんで、そんなこと笑顔で言えるの……やめてよ。いいよ、そんなこと言わなくて」
「しかし――」
「君にそんなことはさせたくないの」
わたしは、またこの小さな手に頼るしかないの?
どれだけぼろぼろになっても、笑ってやり過ごす、このやさしい手に?
ダメだ。
「この問題は、わたしがなんとかする」
「……アンジェリカさん?」
「いざと言う時は来ないし、わたしはあの子が魔獣だなんて信じない」
いつかなんて来ない。その為にも、わたしはこの滅びた都市を笑って脱出する。




