第三十二話
ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。その上から靴の蹴る音と背筋に迫る殺気が一様に塗り潰す。自分でない足音が大きくなるほどに、抱えた小さな体はより重みを増した。
「真っ直ぐ進んでっ」
「行き止まり左っ」
「一番目の脇道で右に曲がってっ」
先導してくれる声を頼りに先へ進む。迷路みたいな路地裏だ、ひとりなら確実に道を見失うだろう。それでも、エウレルを助けるためだ。進むことまで迷うわけにはいかなかった。
薄暗い道を走り続けて、何かに足を取られながらも、振り払って先へ進む。靴が水をはじく音が何重にも響いた。見えない恐怖に必死で、振り返る余裕も無かった。
「入って!!」
しばらくすると暗い道にうっすらと扉の面影が見えた。ここに入れ、ということらしい。
しかし、奥は何一つ見えない、ひときわ深い闇で包まれていた。
もし、この先が魔獣のたまり場だったら。足が竦みそうになる。でも、止まるわけにはいかない。もしもの時は、命を懸けてこの子を守る。
最悪の可能性を念頭に置きながら、わたしは闇の中へと入っていった。
扉が閉まる。そして、明かりが付いた。
どこかの部屋の中らしい。何もないし誰もいない。鉄で覆われたみたいな、そんな壁の色をしている。
「もう、大丈夫だよ」
「ごめんなさい。せっかく助けてくれて申し訳ないけど、顔を見てお礼を言うことは出来ないの」
「わかってるよ。お姉さん、旅の人なんでしょ?」
物分かりが良くて助かる。後ろからの声は、随分と幼いものだった。女の子かな? エウレルよりは少し年下だろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。今はエウレルを休ませてあげるのが先決だ。しっかりしろ、わたし。
「急に押しかけてごめん。でも、急がないとだから聞くね。もし良ければ休ませてほしい。もしくは、休めるような場所を教えてくれると嬉しいんだけど、どうかな?」
「それなら、この部屋を使うといいよ」
「使っていいの?」
「うん、ここに人が来ることはないからね」
「ありがとう。本当にありがとう」
後ろからの声——女の子としよう。女の子は、押しかけて来たわたし達を追い出すでもなく、快く迎え入れてくれた。
せめて何かお礼になるものを渡したい。荷物を下ろし、鞄の中身を漁る。
……薬草しかない。しかもふた房。ひと房はエウレルに使うとして、わたしの分は、うん、ヤニ様に祈ろう。
わたしは顔を伏せながら、後ろに薬草をそっと渡す。
「よかったら使って」
「これは……?」
「薬草だよ。エトアル街道で見つけたの。体調崩した時は、これを擦ってお湯に煎じて飲めば収まるよ」
ひょっとして使わないだろうか。旅人みたいに外に出ることはそうないし。選ぶもの間違ったかな、と軽く後悔して何か付け足そうか考えていると、小さな手がするりと薬草を掴んでいった。
「ありがとう。大事に使わせてもらうね」
「そこまで高価なものじゃないけど……役に立てると嬉しいな」
「ううん。凄く役に立つよ。みんなも喜ぶと思う」
みんな?
「あなた以外にも、この旧都に住んでいる人がいるの?」
「旅人さん達の中では旧都って言われてるんだね。そうだよ、あたしはこの区画に住んでる」
くかく? 何の言葉だろう。
その時、エウレルが苦しそうに顔をしかめて、唸り始めた。まずい、早く解熱してあげないと。
急いで鞄を枕にして、エウレルを横に寝かせる。地べたは冷えるので、下にはわたしの服をいくつか重ねた。息は粗く、目をつむって辛そうにしている。
ここまで来れば、嫌でもわかる。この子は、無理をしていたんだ。
少しでも楽になれるよう、頭を冷やしてあげよう。
「冷やせ」
後ろの子にバレないよう、極力小さな声で詠唱。
手に程よい冷気を籠らせて、エウレルの頭に乗せてやる。やっぱり熱い、あとで薬草を食べさせないと。持ってきてて良かった
それから空いた手で鞄の中から器とナイフを取り出す。取り出した手は震えていた。気持ちで抑え込み、こぼれないように中へ入れて薬草を細かく切り分ける。それから擦り棒でつぶして、魔法で造った水をそっと入れた。
「熱せ」
詠唱を唱えると、器から湯気がゆらゆらと立ち始めた。
「ごめんね。お口開けてもらえる? 辛いと思うけど」
わたしのお願いに、エウレルは辛そうにしながらも、小さな口を開けた。
後はエウレルの口元に薬草を煎じたお湯をそっと流し込む。大変だけど頑張って。そう祈りながら、むせないように飲み終わるまで注ぎ続けた。
しばらくすると、エウレルの表情から苦しそうな様子が引き始め、次第に寝息を立てるようになった。
「ふう、とりあえず様子見。あとは、元気になることを祈ろう」
「すごいね、手慣れてるの?」
「あらかじめ必要な器具とか材料は用意してたから。水とかも、鞄に入れてるんだ」
「へえ、旅人さんはいろんな準備が必要なんだね」
「わたしは見習いみたいなものだからね。できるだけ安心したいんだよ」
そりゃあ、見られているよね。
魔法はみだりに使っちゃいけない、というロイの教えが肝を冷やす。
でも、魔法は見られてないよね? 大丈夫だよね? だって、ひそひそ声より声は抑えたし。
内心冷や汗ダラダラだけど、気にしない。気にしないったら気にしない。
さすがに苦しいので、話題を切り替える。
「ところでさ、わたしアンジェリカって言うの。よかったら名前を教えて欲しいな?」
「なまえ? うーん、なにそれ」
この子もエウレルと同じか。胸が痛む。
「それは、その。あなたを示す言葉というか。ほら、熱い水だって、お湯って言うでしょ? そんな感じのことかな」
「うーん、言われたことないからわかんない。でも困らないから大丈夫だよ」
「そっか」
きっと、そういう生活で通っているのかもしれない。名前が無くても暮らしていけるような、そんなわたしの知らない生活が。
「あとさ、よかったらもう一つ聞いてもいい?」
「いいよ!! なんでも聞いて!!」
「さっき、くかくって言ってたけど、あれはどういう意味なの?」
そういうと、女の子はうーん、と頭をひねるような素振りを自分で声にしながら、
「えーとね、あなたで言うこの旧都ってね。区画ってやつで、住む場所が分けられているの」
「村とか、都市とか、そういう?」
「それよりももっと小さいかな。村があるとするでしょ、そこを二つに分けるの。ひとつはおいぬさん区画、いぬだけがくらす場所。もうひとつはねこさん区画、ねこだけが暮らす場所。こんな感じかな」
猫だけが暮らす場所。犬だけが暮らす場所。そういう風に分けられているという。
じゃあ、今わたしたちが居る場所はどの区画なんだろう。見当もつかないけど、あまり踏み込まない方が良い気がした。
「あ、あとさ」
「うん」
「『あなたで言う旧都』って言ってたと思うんだけど、この街には何か正しい呼び方があるの?」
「そうだよ」
あるんだ。どんな名前なんだろう、気になる。
「この場所はね、ずっと昔に栄えてたんだって。変な名前だから今じゃ誰もそう呼ばなくなったけど」
「へえ、どう呼ばれていたのかな」
アクテリス、に近い名前なのかな。
しかし、女の子の答えは、どこでも聞いたことのない、文字通り変わった名前だった。
「ずっと、ずーっと昔だけど、こう呼ばれていたんだって。眠らない街、渋谷って」




