第三十話
暗い。
旧都に入って、いちばん最初に持った印象だった。
桟橋を通り抜けるまでは晴れやかだった空も、中に入ってしまえば暗い雲が一面を覆い隠していた。しとしとと落ちる雨粒が石床に落ち、跳ねる音がそこら中から反響してきた。
あの巨大な竜の魔獣が生み出したものだとしたら、思わず身震いしてしましそうだ。
「忘れていないと思いますが、ここから先は目を合わさないように」
「……うん」
頭上から物音がした。見上げてしまう高さばかりの塔たちの隙間から、黒い影が飛び出す。どうやら建物の隙間を渡り歩いているらしい。俊敏だなあと思いつつ、襲われないように身を固める。
「不安を煽っておいてなんですけど、そこまで警戒しなくても大丈夫ですよ。この辺りに人害のある獣は居ません」
さも当然と言わんばかりに淡々としているエウレル。こっちばかりビクビクして何かくやしい。
「ほんとぉ? 実は物陰に隠れてたりするんじゃない?」
「いるにはいますが、背後から狙うやつはそう多くないからですね。特に魔獣に限ってそれはあり得ない」
「……いるんだ。って、すごく大事なこと言ってた気がするんだけど」
「魔獣のことですか?」
「うん」
エウレルは真剣な顔で空を眺めると、
「人を襲う魔獣は、目が合わない限り襲い掛かることはないんですよ」
「えっ、そうなの!?」
「理屈はわかりません。目が合わなければ襲ってくることもない。多くの人は風貌に恐れ慄いて逃げようとするんですが、あれは魔獣にとって宣戦布告みたいなもの。実は逆効果なんです」
「し、知らなかった」
草原で寝そべった時だって、雨風の中歩いた時だって、ひょっとしたら目が合わなければ何事もなかったってこと? なんかものすごく損した気分。
ひとり肩を落として、ふとエウレルを見やる。やはりものすごく真面目な顔をしていた。というよりむしろ、張り詰めたみたいな――
その時、エウレルは前を見据えながら、
「アンジェリカさん」
「どうしたの?」
「前だけを見るようにしてくださいね」
「へっ、どうして?」
「魔獣に囲まれています」
ぞっとした。
つい振り向こうとするが、言われたことを思い出してぐっとこらえた。
「一応、対処できるレベルなのですが、戦わないに越したことはないので」
「そ、そっか……これも英雄の知識ってやつ?」
「そうですね。でも、魔獣に囲まれたうえでの交戦は実体験もあるので、信じられると思いますよ」
なんというか、ものすごく頼もしい。
出発までガクガク震えてた小さい少年とは別人みたいだ。
黙々と前を進むエウレルの後を付いていきながら、前だけを目指して歩き続ける。石畳の道は階段に変わり、なだらかに伸びていた。言われた通りに前だけを見るようにして、ゆっくりと上り続ける。
「そうだ、アンジェリカさん」
気にしたようすもなく、エウレルはわたしに向かって話かけてきた。
心配になったわたしは、耳元まで近づいてこっそり返して、
「え、いいの? その、魔獣は」
「だいじょうぶですよ。目を合わせたり、話しかけたり聞いたりしなければ」
「……どういうこと?」
「魔獣というのは、自分の存在が知られた時に襲い掛かる習性があります。目が合えば姿を見られたのを悟って襲い掛かる。声を掛ければ、気づかれたのを悟って襲い掛かる。……難儀ですよね、ほんと」
苦笑いしながら教えてくれるエウレルだったけど、正直冷や汗がとんでもない。
だって、見ちゃダメ以外にも声を掛けたらダメって、それって――
「あ」
「どうしました?」
「前に、ほら。人がっ」
塔の柱にもたれて、座りこむ女性がいた。ぼうっと見えない何かを見つめているみたい。服もよれよれ、お世辞にもご飯が食べられてるとは思えない。
でも、やっと人に会えた。エウレル以外の誰かも、ここにいるんだ。感激して声を掛けようとしたところ、
「駄目です」
後ろから腕を掴まれた。
振り向くとエウレルは首を横に振って、
「声を掛けてはいけません」
「……ひょっとして」
「ええ、魔獣です」
「――人に、擬態しているってこと?」
「はい」
おかしいよ。
「ねえ、この人って本当に魔獣なの?」
「はい」
「どうして、それがわかるの? 魔獣って目が赤くて――」
「もうひとつ、魔獣だとわかるものがあります」
そう言って、エウレルは懐からナイフを取り出す。
「ぼくの手元を隠せたりしますか?」
「多分できると思う」
「今からやってみせますので、ちょっと見ててください」
「じゃあ、姿を隠せ」
理由はわからないけど、言われた通りにエウレルの手に向けて姿を隠せの魔法を唱える。すると、どこからともなくナイフが飛び出した。階段にカツンと当たり、その場に落ちる。刃にはうっすらと血が付いていた。
「あの女を見ていてください」
「え、いいの?」
「はい。もう、魔獣は獲物に釘付けですので」
言われた通りにゆっくりと女性の顔を覗き込む。
すると、座り込んでいたはずの女性は、垂れた前髪の隙間から赤に染まった目でナイフをぎっと睨みつけ、四つん這いで身を乗り出していた。
「こんな風に、魔獣は血を好む傾向にあります。しばらくすると、ナイフにたかって血を舐め始めます」
女性は唸る声をあげると、急に全身から黒い毛があふれ出し、歯を突き出した顔は犬を彷彿とさせるものに変わった。それからゆっくりとナイフに近づくと、狂ったようにナイフの刃先をべろべろと舐め始めた。
「あれを、人間と呼べるのでしょうか」
「それは……」
「我を忘れて、狂ったように血を求めて、目が合えば襲い掛かる……それが、魔獣」
女性の顔を覗き見た時を思い出す。瞳は血の色に染まっていた。これ以上否定のしようがない事実。
でも、どうしてだろう。同じ姿をしてるはずなのに、全く違う。
そんな現実を前に、わたしはただうろたえるしかできなかった。




