第二十一話
手のひらが透明に変わる。自然と同化して、形が消えた。
笑顔の仮面を張り付けた大男はわたしを見ていた。しかし、焦点が合わない。ぐるぐると瞳だけを動かした。その隙に「浮け」と唱える。限りなく声を殺した。そのままゆっくりと後退。逃げないと死ぬ。そんな恐怖が目と鼻の先までやって来た。
ふと、
動く瞳が止まった。わたしを見ていた。
「嘘付キ」
見せつけるように、口を開閉させる。
それを何度か繰り返して、赤い瞳がかっと開く。開きすぎて目じりの皮膚がぱっくりと割れた。赤い血がたらりと流れ落ちた。
笑顔の仮面は、鬼に化けた。
「何処」
祈った。見えなくなるまで、遠くなるまで、浮いて。と。その願いが魔法に伝わり、ゆっくりと体は後退を続ける。
足跡は無い。距離も離れる。それなのに。
「何処」
獣の声は嫌になるくらい鮮明だった。
途端、大男の姿が消えた。辺りの木々がボォン、と音を立て真っ二つに折れ始めた。そこに男が現れ、直ぐに消える。
瞬きが出来ないから、見えてしまった。男のパンチが、紙をやぶるみたいに木の幹をへし折ったのを。
「何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処」
殴っては消えを繰り返し、手あたり次第に街道を荒地に変えていった。中には建造物もあったのだろう。石の破片がこちらまで飛び散った。
地鳴りのような音、大木の折れる音があらゆるところから鳴り響いて、それから地面を何度も殴りつけて、巨大な亀裂を走らせていった。
ばれていないことだけが命綱。それを思い知らされた。こんな決断しなきゃよかった、って後悔した。
死にたくない。
浮いて、後ろに逃げて。何度も頭の中で唱え続けた。そのお陰か、徐々に後ろへ引く速さが上がっていった。大男はまだ気づいていな――
ドォォォォォォォォォォン。
耳が破裂するような大きな音が、間近で響いた。
大男が、わたしの真隣で拳を下ろしていた。中心からは凹みが広がって、穴がぽっかりと開いている。それから直ぐに消え、森のどこかから破裂音が何度もこだました。土煙のせいで、辺りは何も見えなくなってしまった。
「イナイ」
耳元から、
「イナイ」
首元から、
「イナイ」
真正面まで。あらゆる至近距離から、呼び声と破裂音が耳を刺激した。
思わず耳を塞いでしまった。それでもイメージだけは止めなかった。死にたくなくて、何も見えないなか、とにかく後ろへと下がり続けた。
「何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処。何処」
浮けの維持のせいで、疲れ切った頭から思考がはがれ落ちる。あせっている間にも無作為に地面はえぐられていく。いつしか、陥没のない箇所が見当たらなくなってしまった。
「オカシイ。臭イ、マダ、アル。音、スル」
鼻も効くの……? 音、出してないよ?
頭が真っ白になったところをギリギリでイメージを保つ。運よく、魔法が解けなかったお陰で見つかってない。
だめだ。このままだと、逃げられるどころか偶然やられるかもしれない。あの化け物はきっと、わたしかあの子のどちらかを殺せればいいんだ。
そんなどうしようもない状況で、わたしをあざ笑うかのように、運命の選択が現れた。
いきなり横風が吹き始めた。充満した土煙は払われ、視界が一気にクリアになる。
現れたのは二つの別れ道。
ひとつは、帰り道。真っ直ぐ下がれば少年の家にたどり着く。
もうひとつは、今いる場所を折り返すような小道。先に何が続くかはわからない。
少年を囮に、逃げるのか。
わたしを囮に、少年を逃がすか。
むずかしく考える余裕はない。強く念じすぎたせいで、頭痛がこのうえなく酷い。今決める。それ以外は手遅れ。
「教エル、シタラ、命助ケマス」
その言葉を聞いて、わたしは道を決めた。
今以上に消えながら浮くイメージを強く持つ。息を呑む。
わたしは小道を選んだ。できるだけぶつからないように、細心の注意を払って、先に進む。できるだけ遠く、少しでも遠く離れる。いっそ、高く浮けたらいいけど、そんな技術、今のわたしは持ってない。
前へ、進まなきゃ。少しでも、あの子から遠ざける為に。
そして、しばらく進んでたどり着いたのは。
「ああ」
行き止まりだった。その場にへたりこむ。
声を出してしまった。ひざまずく足が見えた。魔法も解けていた。
「見イツケタ」
笑顔の大男が、無音で立ちふさがった。
不思議だな、あんなに怖かったのに、今は穏やかな気持ちだった。
そんなわたし目掛けて、黒くて、大きな拳がゆっくりと迫って来た。
「ごめんね」
それから、圧倒的な暴力がわたしの顔に触れた。
一瞬だけだけど、痛みとかそんな次元を超えてた、と思う。巨大な何かに轢かれた。そんな感覚を最後に、わたしは意識を手放した。
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