第二十話
「オ悩ミデス、マスネ?」
獣の声だった。人とは違う、くぐもって野太い声。それでいて、おかしかった。二人が同時に喋ってるみたい。明らかに普通じゃない。
肩に何かが触れた。手が置かれていた。なぞるようにわたしの体をはいずり回る。気持ち悪い。嫌だ。
「怖ガル、ナイ、デス」
ぬっと人の顔が現れた。
飛びのいたあまり、転んでしまった。そんなわたしを見下ろす大男は、ゆっくりと首をかしげた。村の大人より二回りは大きいと思う。それでいて、白い髪を後ろで束ね、目元を黒い何かで隠していた。黒で塗りつぶしたような革服からは、地肌が殆ど見えない。
唯一の手掛かりなのは顔だった。灰色。人の肌色じゃなく、灰色に染まっていた。そして、笑顔の仮面でも張り付けたかのようだった。
培った経験全てが一斉に叫んだ。
早く逃げろ、と。
「うわあああああああああああああああ!!」
仰け反ったまま、体をひるがえして、全力で逃げた。もがくみたいに走った。でも、わかるんだ。アレは、ダメだ。近寄ってはいけない。とにかく前に、走って。どうか追いかけてこないで。おねがい。
「ウーン。ニンゲン? チガウ、イエ、アッテル、マス」
「あ、ああ」
前に進んでいなかった。一歩もだ。
ぐい、とものすごい力で引き寄せられる。抵抗できなかった。それからすぐに、また、あの灰色の顔がやって来た。
そして知る。丸太のように太い腕が、わたしの服を掴んでいたのだと。絶望するわたしに追い打ちをかけるように、笑顔を張り付けた男は、目元の黒い何かを取り外した。
「英雄、何処。教エル、下サイ」
血の色に染まった赤い瞳がこちらを凝視していた。魔獣――
「知ッテル、マスネ?」
「え、えいゆう……? あなた、いったい」
手早く? 運がいい? 何を言ってるの?
「何処ニ居ル、マスカ」
「し、しらない」
わからない。この人、何を言ってるの。何がしたいの。わからない、わからないっ!!
暴れて逃げ出そうとした。それでも、ぴくりとも動かない。それどころか、大男はもう片方の手をわたしの額に押し付けた。痛い、頭がへこみそうだ。
すると、大男はぶるぶると体を震わせて、口元からよだれを垂らした。
「オオ、ナント、悲シイ。父ト別レ、母ハ死ニ、愛シイロイモ、死ンダ」
頭が真っ白になった。なんで、この人がわたしのことを……? 誰にも言ってない。あの子にだってロイのことしか知らない。
「救ッテ、アゲル、マス」
「……は?」
「貴女、自由ニナル、マス。優シイデス、ショウ? ワタシ、貴女悲シイ、貴女不自由。知ッテル、マス」
そんなわけ、そんなわけない。そう言おうとして、言えなかった。
でも、どうして。何でしっているの?
「少年、デスネ。飢エ、貧シイ生活、送ッテル、デスネ。カワイソウ」
「ちょ、ちょっと待って。なんで、どうやって知って」
一体、何をしたんだ。
嫌な予感が頭の中でぐわんぐわんと叫び続ける。そして振りほどこうと暴れた。
ダメ、全然外れない。それくらいとてつもない力なんだ。
もしも、これが暴力に変わったら。そう思うとぞっとする。
じゃあ。
もしも、もしもあの子に向いたら?
「サア、教エル、デス」
赤い瞳の瞳孔がぱっくりと開いた。蛇のように、おぞましさがからみつく。
こんなものに善意なんてあるわけない。いくらわたしでもわかる。
でも、言わなかったらどうなる。気味の悪い笑みの裏に何を隠しているのか、見当もつかない
「もし、言ったら。貴方はどうするの」
「色々、楽シイ、ナル思ウ、マス」
絶対に良いことにはならない。ぼかす理由なんて無いもの。
途端、蛇のような瞳がぎっ、と睨みつけ、わたしの首を掴んだ。
「あ、ぐぁ……」
「悲シイ、人ガ苦シム、悲シイ」
締める力は徐々に強くなる。息がしたい。なのに、喉が絞まって吸えない。息が、出来ない。頭がチカチカする。
痛い、苦しい、死にたくない。誰か。
「ぐる、じい」
あれ、眠気が。視界がぼんやりとしてきた。
死んじゃうの?
そうしたら、どうなるの? わたしの旅、終わっちゃうの?
ロイの夢を叶えるって約束は? お父さんにまた会うって約束は?
全部無かったことになっちゃうの?
「や、だ……」
だめだ、だめだそれだけは。
なんとしても生きなければ。ほ、ほら。本当はあの子の両親もさ、心配してくれてるはずだよ。ひょっとしたらあの子の知らないところで探し続けてくれてる……きっとよくしてくれるはずだよ。
生きたいの。なんでもいいよ。死にたくない。死にたくない。
だからさ、
「……わか、った」
締める力が弱まった。急に開けたせいで、体は息を吸おうと必死になる。喉が焼ける咳が出た。それでも咳は止まらず辺り一帯にこだました。
赤い瞳がわたしを見る。気味の悪い笑みはそのままに、死にかけのわたしを観察するように目を離さなかった。
「教エル、クダサイ」
「はあ、はあ、はあ、はっ……」
「痛イ、辛イ、悲シイ、助ケテ。死ニタクナイ、死ニタクナイ。嫌、デスヨネ。ワカル、マス」
心の中を見透かされている。同情なんて言葉だけ。ただ、あの子の情報を吸い上げたいだけだ。そんなのは分かってる。
でも、怖い。もう心は完全に折れていた。
「言う。だから放して、ください。おねがいします」
そう言うと、浮いた体がすっと地面に落ちた。
「はあ! はあっ、がはっ、おえっ、はあはあはあ……」
「サア、教エロ、デス」
「ま、まって。いき、ととのえる、から。ごはっ、はあはあ」
何をお願いしているんだ、わたしは。この男のせいで死にかけたんだ。でも、睨む勇気はない。殺されるかもしれない。そんなの嫌だ。
咳のせいでうまく声が出ない。こんな時まで弱いの? なんでわたしは――
そんな自分にうんざりしていると、皮肉にも頭が少しずつ冷静さを取り戻し始めた。状況は最悪だ。わたしの記憶がなぜか知られてるし、死にかけた時の感情も言葉にしてみせた。逃げられない、そう思わせたいんだろう。
「えほっ、えほっ……」
咳が止まるまで間、ふと、頭をよぎった。
取り繕ったような、本心を裏に押し込めた悲しい笑顔。自分より若い子が、あんな顔をするのが嫌で止めるように言ったんだ。
そうだ、思い出した。
ロイの報せを聞いた時も、みんな幸せそうにしていた時も、お父さんが怖かった時も、無理矢理人に合わせようとしていた。それを仕方ないと思っていたんだ。
まだ、何も始めていないのに。
「場所は――」
身体中から血液の流れる音が聞こえた気がした。心臓の音がうるさい。息をするのもしんどい。今ならまだ引き返せる。いや、もう全部筒抜けになっているのかもしれない。余計なことばかり頭に浮かんでしまう。
もっと旅をしたい。お父さんに会いたい。死にたくない。浮かんでは消えてを繰り返す。今生の別れみたいな気持ちがぶり返した。諦めを肯定されてるみたいだった。
それでも、あらゆる方面から聞こえた生きたいという叫びを全て受け止め、ふう、と息を整える。
考えてはいけない、あとは委ねるだけだ。
どうか、わたしをお導きください。生まれて初めて本心からヤニ様に祈った。
「姿を隠せ」
あの子には生きていてほしい。心からそう思った。
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