第9話 エデンの園への詫び
「ここは【エデンの園】だぞ。クラブPhantom Rougeにてやろう。私はエデンのスタッフに詫びを入れておくから、裏口から連れて行け」
レンブラント中佐がネクタイの結び目をわずかに緩め、スマートフォンの画面からユウキへと冷ややかな視線を戻しながら指示を飛ばした。
「ええ、そうですね。他人の店でこれ以上ゴミを広げておくのも無粋というものです」
レム判事は静かに立ち上がり、白のジャケットの埃を払うように整えると、床にへたり込むユウキの襟首を掴み上げた。
「ひ、ひぃっ……! どこ連れてくの……!? 許して、許してぇ……!」
「黙りなさい。耳障りです」
レム判事の菫色の瞳が一瞬で冷え込み、低い声がユウキの喉元に突き刺さる。その絶対的な威圧感に、ユウキの口からは「ひっ」と情けない息が漏れただけで、言葉は完全に凍りついた。
レンブラント中佐は倒れたシャンパングラスを一瞥し、内ポケットから黒い革の手帳を取り出しながらVIPルームの扉を開けた。外に控えていた店の責任者へ、知的な笑みを崩さぬまま淡々と詫びと後始末の交渉に入っていく。
その背後を抜けて、レム判事はユウキを荷物のように引きずりながら、薄暗い裏口の通用門へと向かった。
ネオン煌めくエデンの園を抜け出した先、冷たい夜風が吹き抜ける路地裏に、漆黒のサロン――Club Phantom Rougeの送迎車が、音もなく獲物を待っていた。
VIPルームの扉が静かに閉まり、レム判事が裏口へ向かう足音が消えたのを見届けると、レンブラント中佐はチェック柄のネクタイを整え、ゆっくりと廊下へ歩み出た。
そこには、店の支配人と先ほどの黒服が、直立不動の姿勢で控えていた。
フロアの喧騒から隔絶された薄暗い通路に、中佐の硬質な靴音がコツリと響く。
「支配人」
中佐は知的な光を宿した菫色の瞳を細め、穏やかでありながら底知れぬ圧を孕んだ笑みを向けた。
「貴店の華やかなエデンに、少々不快な羽虫が紛れ込んでいたようで。店内の備品を損壊させた無作法、こちらからも詫びを入れさせていただく」
中佐は内ポケットから滑らかな手つきで厚みのある漆黒の封筒を取り出し、支配人の胸元へと差し出した。
「破損したボトルと絨毯の張替え、そして今夜フロアの空気を乱した迷惑料だ。色をつけてある。端数はそこの若いスタッフたちの夜食代にでも使ってくれ」
支配人は封筒の重みを受け止めると、深々と頭を下げた。裏社会におけるPhantom Rougeの格と、中佐の手際の良さを熟知しているからこその、淀みのない所作だった。
「滅相もございません、中佐。厄介な寄生虫を速やかに駆除していただき、店としても感謝に堪えません。あのような輩にエデンの敷居を跨がせたことこそ、私どもの落ち度でございます」
「話が早くて助かるよ」
中佐は薄く口角を上げ、黒の手袋の手で軽く支配人の肩を叩いた。
「我々もこれ以上の騒ぎは望まない。あとの“解体”は我が館の地下で、じっくりと法と美学に則って行わせてもらう。……今夜のことは、ただの悪酔い客が一人、ツケを払えずに裏口から逃げ出した――そういう台本で頼む」
「心得ております。完全な事故として処理いたします」
「結構だ。良い夜を、支配人」
洗練された身のこなしで踵を返したレンブラント中佐は、ジャケットの裾を翻し、煙草の香りが残る廊下を優雅に歩み去っていった。エデンの園の日常は何事もなかったかのように復元され、夜の闇はさらに深く、冷たく沈んでいく。




