第8話 世の中には知らなくていい事もある
VIPルームの分厚い扉の外。
廊下の角から、グラスの割れる音とくぐもった悲鳴を聞きつけた若い一般客――ホストクラブに初めて訪れたとおぼしき女性が、心配そうにおずおずとVIPルームの扉に近づこうとしていた。
「あ、あの……中で誰か倒れてるんじゃ……警察か救急車、呼んだほうがいいんじゃ……」
スマートフォンを握りしめ、おろおろと扉のノブに手を伸ばしかけた瞬間。
スッと背後から伸びてきた黒い手袋の手が、その肩を優しく、だが絶対に逆らえない力加減で押しとどめた。
「お客様、そちらへ近づくのはおやめください」
振り返ると、そこに立っていたのは店の黒服だった。整った身だしなみに、感情を一切削ぎ落とした静かな会釈。その落ち着き払った佇まいは、奥の部屋で起きている血生臭い惨劇とはあまりにかけ離れていた。
「でも、すごい音がして……女の子の叫び声も聞こえて……!」
怯えと正義感で声を震わせる女性客に対し、黒服は穏やかなトーンを一切崩さず、淡々と諭すように語りかけた。
「お優しいお心遣い、感謝いたします。ですが、ご心配には及びません。あの中で行われているのは、ただの『正規の清掃作業』でございます」
「せ、清掃……?」
「はい。あそこに転がっているのは、他人の善意と口座を喰い荒らし、払うあてもない金で神を気取っていただけの害虫にすぎません。法の手続きを待つまでもなく、この街のルールに従って、然るべき専門家が“原状回復”を行っている最中でございます」
黒服はわずかに首を傾げ、VIPルームの隙間から漏れ聞こえる鈍い打撃音と命乞いの声を、まるで雨音でも聞くかのように受け流す。
「世の中にはですね、お客様。関わってはいけない闇と、同情する価値すら存在しない人間というのが確かに存在するのです。あそこで散っているのは悲劇のヒロインではなく、ただの不発弾の残骸。……お客様のように真っ当に生きておられる方が、その小さな指先を汚す必要はどこにもございません」
黒服は胸ポケットから上質なミントタブレットを取り出し、女性の掌にそっと乗せた。
「今夜のことは、質の悪い夢をご覧になったとでも思って、どうぞメインフロアでお仲間とお酒をお楽しみください。……さあ、あちらへ」
促された女性客は、黒服の底知れない笑みに気圧され、何度も振り返りながら早足でフロアの光の中へと戻っていく。
閉ざされた重厚な扉の向こうでは、再び鈍い衝撃音と、プライドを粉々に砕かれる哀れな悲鳴が響いていた。




