第4章 迷い
「ヴァン君、疲れたかい? 手が止まってるけど」
「……いえ、大丈夫です」
ある昼下がり、ヴァンはミロの牧草地の柵を直しに来ていた。
作業の間、羊たちはすぐそばでのんきに尻を向けて、草を食んでいた。
ヴァンは金槌を持ったまま、しばらくそれを眺めていた。
「結局、あれはなんだったのかねぇ」
ミロが汗を拭きながらぼやく。
羊は死ななくなった。原因はわからずじまいだったが、誰も答えを持たなかったし、平和が戻れば、誰も答えを必要としなかった。
『何かの獣の仕業だったんだろう』『きっと山へ帰ったんだ』
村人たちは適当に納得できる物語へ状況を落とし込み、そうして、夜警はなし崩しに解散した。
「ところでさ。ヴァン君、どうなの。セナちゃんとは」
「……ええと……」
「セナちゃん別嬪だけど、ここには老人しかいないでしょう。いき遅れをみんな心配してたんだよ。
そんなおりに、あんたが村へ来たってわけさ。しかも食堂の住み込みで。ねぇ、どうなのさ」
ミロはいつもの慇懃さはどこへやら、ニヤニヤと下世話な顔でヴァンを肘で小突いた。
田舎の噂は、井戸の水より速く回る。
確かに、"契約"により、ヴァンとセナは恋仲になった。だがそれよりも前――宴会で2人で飲んでいた次の日から、村では既にそういう噂が立っていたらしい。
実際、セナとそういう仲になってから、ヴァンの眠れない夜は格段に減った。
村に気の利いた逢引の場所などない。たまの夜に原っぱで2人で飲み、たまに剣の授業と称して戯れに木の枝を打ち合った。
「どう、少しはうまくなったでしょ?」
「まさか」
眠る時、セナは部屋に来たり来なかったりした。来ない日でも、同じ家屋に彼女がいると知っているだけで、あの理由のわからない胸の中のふくらみが、ヴァンを夜闇へと押し出すことがなくなった。
食堂の客も、ヴァンが皿を運ぶたびにからかった。
「おい、昨日も見たぞ。2人で飲んでるところ」
「ゲルダさん、いつ祝言だい」
ヴァンは赤くなるでも否定するでもなく、曖昧に困った顔をした。セナも同じような対応だった。村人たちは、余計に面白がった。
ゲルダ――セナの母親はこの件に関して、何も言わなかった。質問もされなかった。ただ、客の騒ぐ声が大きくなると「うるさいよ。とっとと食べて出ていきな」と叱るだけだった。
そうして、ヴァンとセナは公然の仲となっていった。
その頃には、ヴァンのことを「よそ者」と呼ぶ者は、もういなかった。
穏やかな日々だった。穏やかな日々の底で、しかし、ヴァンだけが少しずつ、澱のようなものを溜めていた。
――いつ、村を出るのか。
村を出て、セナを連れて行く。その約束を履行しなければならない。それはヴァンの中で、依頼書のような形をして、ずっと机の上に置かれていた。
だが、出る理由がなかった。
考えてみれば、ヴァンがずっとフラフラと流れてきたのは、行きたい場所があったからではない。居られる場所がなかったからだ。
今、朝五時の厨房があり、直すべき屋根があり、卓番号があり、賄いがあり、セナがいる。
村人たちはヴァンを「兄ちゃん」ではなく名前で呼ぶようになり、たびたび酒の席に呼んだ。最近では、何かの意思決定の場に同席させられることも増えてきた。
給金の出ない作業に戸惑っていたはじめの頃と違い、今は毎日、少しずつ村に尻が落ち着いていく感覚がした。
探していたものは、たぶん、こういうものだった。これのために流れてきたのだとしたら――ここを出て、どこへ行くというのか。
セナは催促してこない。急かされないことはヴァンを安堵させ、また、逆に焦らせた。セナは約束が履行される日を信じているからこそ、何も言わないでいるに違いないのだ。
もし自分がここにいたいと言えば、それは裏切りで、契約の終了だ。そうなれば、どうなってしまうのだろうか。
依頼書に、期日は書かれていない。書かれていないことに甘えて、日々だけが過ぎていく。この話を、ちゃんとしなければならない。わかっていて、今日もせずに眠った。
*
「竈もそろそろ直さないとねぇ」
夜、ゲルダが店の勘定をつけながら呟いた。独り言と、厨房を拭くセナに向かって話しかけているのの中間の声量だった。
「ヴァンに頼めばいいわ。きっと安く済むわよ」
セナはそう返した。そう返したあと、何かを思い、自嘲気味に小さく笑った。
ゲルダはそんな娘の姿を一瞥し、また帳簿に視線を戻した。
*
その晩は、店じまいが早かった。
雨で客足が絶え、三人で残り物の煮込みを夕飯にした。ゲルダが食後の湯呑みを置いて、なんでもないことのように、言った。
「あんたら、結婚したらどうだい」
ヴァンの匙が止まった。セナの湯呑みも、口の手前で止まった。
「あんたらの仲はみんな分かってる。夜中に廊下ぎしぎしいわせて、年寄りを騙せると思うんじゃないよ」
「か、母さん――」
セナは真っ赤になった。
「ヴァン」
ゲルダは、まっすぐにヴァンを見た。からかいの色が、そこだけ消えていた。
「あんたが息子になってくれたら、あたしも安心だよ」
ヴァンは匙を持ったまま、動けなかった。
息子。
その言葉は、給金の話ではなかった。屋根の話でも、水汲みの話でもない。ヴァンが何かをするから、何かと引き換えに、という話ではたぶん、なかった。
(まずい)
遅れて、別の思考が追いついてきた。
(引き伸ばしすぎた)
今この場で「はい」と言えば、セナとの契約はどうなる。「いいえ」と言えば、この人たちに、なんと説明する。どっちの言葉も、口の中で形にならなかった。
「…………」
セナの表情をちらと見る。黙っていた。『当惑している』という表現が、正しく当てはまりそうな表情だった。
沈黙が、雨音に埋められていった。
ゲルダは二人の顔を順に見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「まぁ、ゆっくり考えな」
湯呑みを持って、厨房へ消える。その背中が、少し笑っていた。
*
「……あの」
「……ねえ」
その夜遅く、廊下で行き合った。
ランプも持たず、暗がりの中で、しばらくどちらも何も言わなかった。
先に立て直したのは、セナだった。
「……一度、ちゃんと話しましょうか。これからのこと」
「……ああ。話そう」
ヴァンはうなずいた。
「じゃあ、明日の夜にでも」
「ああ。明日の夜に」
それだけ言って、2人は別々の部屋へ戻った。
戸を閉めてから、ヴァンは暗い部屋の中で息を吐いた。話そう、と言えた。それだけで、頭の中の依頼書の重みが、少し軽くなった気がした。ちゃんと話せば、きっと、何かはまともな形になる。セナは頭のいい女だ。俺よりずっと、言葉を持っている。2人で話せば。
別の部屋で、セナも、寝床の中で天井を見ていた。
翌日の昼。食堂の戸が、乱暴に開く。
約束の話し合いの時は、永遠に来なかった。




