第3章 契約
辺境の夜は都会よりもずっと闇が深く、ヴァンに戦場の森を思い出させた。
食堂の建物の外側に這う、古い木の柱を登る。
明かりはつけられない。暗闇の中を、ヴァンは慣れた手つきで迷わず登っていく。
2階の軒に足を下ろし、自分の部屋の窓に手をかける。
古い建物だ。この窓を音を立てずに開けるのが一番難しい。
慎重に窓を押す。ギ、と少しだけ軋んだ音をさせると、ひっかかりを越えた窓が滑り開いた。
背中の剣がぶつからないよう、狭い窓枠に器用に身体を滑らせ、部屋の中に入る。
同じように静かに窓を閉め、ヴァンはふう、と息を吐いた。
「おかえり」
闇の中から声が飛んできて、身が固まった。
セナが座っていた。ベッドの縁に、膝の上で手を組んで、ずっと前からそうしていたような静かさで。
「ずいぶん遅い散歩ね」
セナは洗い物を受け取る時のような軽さで、そう問いかけた。
「…………」
気の利いた返事ができなかった。できるはずもない。
セナは手拭いを差し出す。
「それ、拭いたら?」
ヴァンは自分の身体をあらためる。袖口に、黒い血の染みが点々と付いていた。
セナの顔を見る。確信を得た表情だった。
「ミロさんとこの羊が死んでたって騒ぎになる日の、前の夜。あなたが窓から出ていくの、わたし見ていたの。一度じゃないわ」
ヴァンはやはり何も言えなかった。剣の重みが、背中で急に増した気がした。
「ねえ。羊を殺すのって、どんな気持ちなの?」
セナの様子は驚くほど落ち着いていた。愉快そうですらあった。まるで、あの宴会の夜に2人で話した時の空気感で、『どうしてこの村に来たの』と聞いた時と同じような声の調子だった。
答えるべきではないと分かっていた。ごまかす手段も、いくらでもあっただろう。だが、セナの態度には責める色がまったくなくて、それがヴァンから嘘を取り上げた。
「少し、楽になる……気がします」
ヴァンは目を閉じて思い出す。
それはいつも、眠れない夜だった。
部屋のあたたかさが、日中の礼の言葉が、体のどこにも染みてこない夜がある。胸の中で、名前のわからないものが膨らんで、皮膚の内側を押す。それに突き落とされるように、ヴァンは剣を背負って、窓から闇へと抜け出す。
ミロの家の柵を越える。
羊は逃げない。よく人に慣れている。
一太刀振るう。
羊の血が吹き出すのに合わせて、ヴァンの中に膨らんでいたものが、すこしだけ、しぼんでくれる――。
「ふうん」
「……軽蔑、しましたよね」
「そうね」
セナは立ち上がり、先ほどヴァンが入ってきた窓から外を眺める。無防備な背中だった。
「でも、私だって、この村が全部燃えればいいって、毎晩思ってるから」
そう話すセナの表情は窺い知れなかった。
「ねえ、取引しない?」
「取引?」
セナがこちらを振り向く。
「羊のこと、黙っていてあげる。かばってあげたり、嘘の証言をしたっていいわ。
あなたが望むなら、愛してあげてもいい。あなたが望む恋人になるわ」
「――」
ヴァンは怪訝な顔をした。愛、という唐突な言葉が、頭の中でうまく像を結ばなかった。
「その代わり、私をここから連れ出してほしいの。いつかあなたがこの村を出るとき、私も連れて行くって約束して。そういう取引。どう?」
「俺が断ったら、どうするんですか」
「母と村人たちに、見たことを言うわね」
「……脅迫ですか」
取引、脅迫。
ますます、愛という言葉がその横に並んでいることへの違和感が強まった。
だがセナはあっけらかんと笑った。
「あら、だってあなた、自分で言ってたじゃない。
天涯孤独で、兵士としてしか生きられなかったって。
つまり、力を支払う代わりの愛情しか、もらったことがないんでしょ」
殴られたような顔をしている、と自分でわかった。
図星だった。
戦場の給金も、冒険者パーティの椅子も、この村の「働き者」の椅子も、全部そうだった。力と引き換えに与えられた居場所。差し引きの上に成り立つ承認。それ以外の形を、ヴァンは知らなかった。
「なら、私が愛を支払う代わりに力をもらっても、構わないじゃない」
セナは微笑んだ。嘲笑にも、慈愛にも見える微笑みだった。
ヴァンの正面に歩み寄り、持っていた手拭いで袖の血を拭く。
「あぁ、全然落ちないわ。いつもどうしてるの?」
「……水桶に浸けて、翌朝の洗濯の担当が自分の時は、その時洗います。セナが担当の日は、別の服を出しておいて、部屋で洗います」
「ふふ……。まるでおねしょを隠す子供ね」
「……」
袖を拭う指が妙にやさしくて、それはほとんど、恋人の仕草だった。
視線が合い、どちらからともなく、口づける。
口づけたまま、ヴァンは衝動にまかせてセナの背中をかき抱いた。セナもヴァンの背中に腕を回して応えた。
それが、契約成立の証だった。




