最終話:神去りの門(かみさりのもん)
一 終焉の地、始まりの家
「自然科学において『特異点』とは、既存の物理法則が通用しなくなる限界の場所を指します」
御子柴巽は、漆黒の空を見上げながら、淡々と、しかしどこか懐かしむような声音で呟いた。
彼女が立っているのは、かつて自身の生家であり、門守の一族が代々管理してきた霊山の頂――「神去山」の不入の地。
時刻は深夜。しかし、空は奇妙な紫色に染まり、星は一つも見えない。大地はまるで生き物のように、規則正しい重低音を伴って微かに脈動していた。
「そして神仏の領域における特異点。それがこの『神去りの門』です。これまで私たちが巡ってきた五つの神域は、現世という器に溜まった『澱み』を逃がすための排出口に過ぎなかった。すべての澱みは地下の霊脈を通じてここへ集まり、浄化される。……けれど、そのシステムはもう限界よ。ルールその六、榧野くん」
巽はトレンチコートの内ポケットから、これまで回収してきた『烏天狗の鍵』『黒い石の仮面』、そして『姉の手帳』を取り出し、足元の岩盤に並べた。
「これより先、私たちの前に現れるものは、神でも仏でも、幽霊でもない。『現世の物理法則そのもののバグ』よ。だから、何が起きても自分の五感を信じてはならない。ただ、私が提示する『客観性』だけを命綱にしなさい」
後ろに控える榧野蓮は、溢れ出る冷や汗を拭うことも忘れ、ただ前方の闇を凝視していた。
彼の霊的センサーは、もはや恐怖という感情を超え、機能不全を起こして白雑音のような悲鳴を脳内で上げ続けている。
「……御子柴さん。僕、わかってます。これが、最後の鑑識ですね」
「ええ。最高の仕事にしましょう」
巽がそう言って一歩踏み出した瞬間、前方の空間がぐにゃりと歪んだ。
現れたのは、これまでの廃村や湖底、墓地、蔵、そして田んぼの風景が、モザイクのように複雑に入り混じった異形の空間だった。その歪みの中心、巨大な石造りの鳥居の前に、一つの人影が静かに佇んでいた。
白装束を纏い、顔を「のっぺらぼう」のように漆黒の霧で覆われた存在。
だが、その佇まいで分かった。
「……姉さん」
巽の声が、夜の静寂に響いた。
二 烏の王
『……遅かったね、巽』
姉・梓の声が、歪んだ空間全体から反響するように響く。その声には、以前のような人間らしさはなく、どこか無機質な、数千人の声を重ね合わせたような残響があった。
「梓。お前が門守の器として完成するのを、我々は十年待ったのだ」
鳥居の陰から、ひときわ巨大な、金色の烏天狗の面をつけた男が姿を現した。周囲には、これまでの比ではない数の、銃を持った烏面の構成員たちが現れ、巽と榧野を完全に包囲する。
金面の男――「烏の組織」の統率者は、狂信的な歓喜を孕んだ声で笑った。
「門守の血族よ。この『神去りの門』を開放し、すべての神域の澱みを現世へ解き放つ。そうすれば、人間は再び神仏の恐怖に怯え、生贄を捧げ、正しい信仰の時代へと回帰するのだ。梓はそのための『門の鍵』となる!」
「客観的に見て、あなたたちの計画は完全に破綻しているわ」
巽は銃口に囲まれながらも、冷徹に男を指差した。
「神域の澱みは、ただのエネルギーではない。人間の『業』と土地の『呪い』が濃縮された純粋な有害物質よ。これを開放すれば、信仰が戻る前に、現世の生態系と人類は一瞬で精神汚染を起こして自滅する。あなたたちがやろうとしているのは、世界の神格化ではなく、単なる『世界の更地化』よ」
「黙れ! 凡俗の学者が神の理を語るな! 梓、門を開け!」
金面の男が叫ぶと、のっぺらぼうの姿をいた梓が、ゆっくりと両手を掲げた。
瞬間、石造りの鳥居の奥に、底なしの暗黒――「神去りの門」が開き始めた。
中から溢れ出してきたのは、甲信地方で見付けた白い糸、九州地方で見た黒い水、東北地方で襲われた骨の破片、四国地方で聴いた黒い影、そして東北の村での顔剥ぎの蔓が渾然一体となった、文字通りの「混沌の濁流」だった。
現世の空間がパキパキと音を立てて割れ、世界の境界が融解していく。
『……巽……。もう、止められないの……。私は、この世界の歪みを引き受けるために……』
梓の顔の霧が晴れ、一瞬だけ、十年前のあの日のままの、美しい姉の素顔が覗いた。
「姉さん、あなたをそんな不条理な”理”から、今すぐ解放してあげるわ」
巽は不敵に微笑み、バッグから『黒い石の仮面』を掲げた。
三 客観性パラドックス
「榧野くん、これまでのすべての理を思い出しなさい」
巽は叫んだ。
「糸を口にしない、上を見ない、嘘をつかない、音を立てない、目を合わせない! これらはすべて、神域が人間を『認識するためのルール』だった」
巽は『黒い石の仮面』を、自身の顔へと装着した。
その瞬間、仮面が巽の皮膚と一体化し、彼女の目、鼻、口の感覚が急速に失われていく。だが、彼女の脳は驚異的な冷徹さで稼働し続けていた。
「この神去りの門の理は、これまでの五つのルールの『集約』。ならば、その全ての逆を同時に行えば、神域のシステムは致命的なエラーを起こす!」
巽は仮面越しに、歪んだ声で榧野に指示を出した。
「榧野くん! 私の血を吸い込んだこの仮面を通じて、現世の『真実の音』を、あそこにいる金面の男に向かって全力で叫びなさい!」
「わかりました……! 金面の男、お前のやってることは、神への信仰なんかじゃない! 自分の無力さを隠すための、ただの八つ当たりだァァァァ!」
榧野が命を振り絞って叫んだ。
その「真実の音」が空間を震わせた瞬間、巽は仮面をつけたまま、真上の「紫色の空」を見上げ、大声で「私は、ここにいる!」という存在の嘘を(顔がない状態で)主張した。
――理の同時反転による、論理的パラドックス。
神域の門から溢れ出ていた混沌の濁流が、行き場を失ったように激しく逆流を始めた。
「な、何が起きている!? 神の力が、暴走している……!?」
金面の男が狼狽する。
「この領域において、私は『顔がない』のに『ここにいる』という矛盾した存在になった。神域のプログラムは、どちらを排除すべきか判断できず、バグを起こしているのよ!」
巽がさらに一歩踏み出し、鳥居の根元にある「門の礎」に、姉の手帳を叩きつけた。
「――『門守の真なる継承者、御子柴巽が命ずる。神去りの門よ、現世の客観を恐れ、永遠に引き籠もりなさい』――!」
バリィィィィン!!!
空間そのものが、鏡が粉々に砕け散るような大音響と共に炸裂した。
強烈な引力が発生し、金面の男や烏面の構成員たちは、自らが呼び出した混沌の濁流に巻き込まれ、悲鳴を上げながら「門の奥」へと次々と吸い込まれていく。
「梓! 助けろ、私を助け――!」
金面の男の叫びは、暗黒の彼方へと消え去った。
四 喪失と、残された楔
「姉さん!」
巽は顔の仮面を引き剥がし、崩壊していく鳥居の前に座り込む梓へと駆け寄った。
しかし、梓の身体は、すでに足元から徐々に「透明な光の粒子」へと変わりつつあった。
門が閉じかけていることで、神域の王としての存在定義を失った彼女の肉体は、現世に留まることができなくなっていたのだ。
『……よくやったね、巽。あなたは、本当に強い鑑識員になった……』
梓は穏やかな笑顔を浮かべ、巽の頬に手を伸ばした。だが、その手は触れる直前に、光となって霧散していく。
「待って、姉さん! 私はあなたを救うために……!」
『私は、消えるわけじゃないわ。この門の向こう側――現世の裏側にある、さらに広大で、さらに深い『常夜の国』へ還るだけ。巽、あなたがすべての門を正しく管理し、現世の客観を守り続ければ……いつか、本当の境界線で、また会える。……だから、それまで……』
「姉さん!!」
最後の閃光と共に、梓の姿は完全に消滅した。
鳥居は元の静かな、ただの古い石造りの建造物へと戻り、空の紫色も、元の深い夜の黒へと還っていった。
「はぁ……、はぁ……」
巽はその場に崩れ落ち、姉が消えた空間を見つめていた。
彼女の頬を一筋の涙が伝ったが、彼女はすぐにそれを手の甲で拭い、いつもの冷徹な表情へと戻った。
「……客観的に見て、今回の調査は『成功』よ。神去りの門は完全に再封印され、現世の崩壊は免れた」
「御子柴さん……」
榧野が、そっと彼女の隣に寄り添う。
巽は立ち上がり、地面に落ちていた「姉の手帳」を拾い上げた。
その手帳は、先ほどの衝撃で完全に白紙に戻っていた。……いや、一箇所だけ、最後のページに、新しい「血の文字」が、生き物のようにじわりと浮かび上がってきた。
それは、今回の神域の破壊によって、日本の裏側で目覚めてしまった、「次なる異常な領域」を示す座標だった。
『第二の五芒星が、西の海で目覚める。壱岐、対馬、そして……九州の最果て。“神仏”の次なる名は、“外来の邪神”。巽、あなたの客観は、海の向こうから来る恐怖に耐えられるかしら?』
「……フッ、いいわ。どこまでだって付き合ってあげる」
巽は手帳をコートの奥深くへとしまい、不敵な笑みを浮かべた。
五 プロローグ
数日後。
日常に戻った東京のオフィスで、巽は新しい報告書を書き終え、タブレットを閉じた。
窓の外には、何事もなかったかのようにビル群が立ち並び、人々が行き交っている。彼らは、自分たちが住むこの世界のすぐ足元に、どれほど深い暗黒の門が開いていたのかを、一生知ることはない。
「御子柴さん、次の依頼が来てます」
榧野が、新調した霊的防護服の入ったバッグを肩にかけながら、部屋に入ってきた。その表情には、以前のような怯えはなく、一人の頼もしい調査員としての光が宿っていた。
「場所はどこ?」
巽はコートを羽織りながら尋ねる。
「九州の、ある寂れた港町です。最近、そこへ漂着した『無人の外国船』の中から、全身を未知の貝殻で覆われた遺体が何体も見つかったそうで……。現地の警察では手に負えないと、政府の特務機関から直々の指名です」
巽は事務所のドアに手をかけ、振り返って微笑んだ。
「ルールその一、榧野くん。海の怪異を調べる時は、絶対に『水平線』を数秒以上凝視してはならないの。……理由は、現地に着いてから教えてあげるわ」
神仏の禁忌を越え、次なる「海の領域」へと向かう二人の鑑識員。
世界に潜むバグを暴き、隔離するための、彼女たちの客観的観測は――舞台を変え続いていく。
(第一編『怪力婪神・常世の理』・完 『怪力婪神・海魔の理』へ続く)




