死力の浮上――そうりゅう、海面へ
昭和二十年四月十九日、午後三時四十五分。喜界島南東沖三十海里。
白濁した航跡が荒波を裂き、鉛色の水平線が黒々と視界を閉ざしていた。
回頭し、東の太平洋へと針路を取りかけていた米海軍ニミッツ級原子力空母「ロナルド・レーガン(CVN-76)」の航跡の直下。水深五十五メートルの冷徹な深海で、潜水艦「そうりゅう」の発令所には、断末魔のような警報音が低く鳴り響いていた。
「AIP液体酸素残量、ゼロ! スターリング発電機、全系統トリップしました!」
佐久間機関長の悲痛な叫びが、青白い非常用コンソールの光に照らされた発令所にこだまする。
「主蓄電池、残余八パーセント! モーター出力を最低限に絞っていますが、姿勢維持の電動ポンプだけで電圧が急降下しています! 浮上充電まで、もって十五分です!」
「艦長、頭上のレーガンが急激に変針!」
水測長・石倉先任伍長が、耳を塞ぐようにヘッドセットを押さえ込んだ。
「推進器ノイズ急増! キャビテーションパターンが急峻に立ち上がっています! 敵空母、東への後退を取りやめ、右舷面舵一杯――針路を沖縄本島、北西二九〇へ反転させました! 速力二十六ノットへ急加速!」
「何だと……!?」
副長・深町二佐が息を呑んだ。
レーガン側の意図は明白だった。竹中が水中通話器で突きつけた最後通牒の「三十秒」が過ぎ、魚雷が直ちに撃ち込まれなかった事実から、米側指揮官――ウェルズ大佐、あるいはOSSの工作班が、そうりゅう側の躊躇と継戦能力の限界を見透かしたのだ。虚勢を見破った巨獣は、傷ついた飛行甲板の残存カタパルトから残余の艦載機を放ち、塩屋湾の「いずも」と首里地下陣地を徹底的に破砕すべく、再び反転突入を開始したのである。
「……相手のプロフェッショナリズムを甘く見ていたな」
竹中二佐の低く沈んだ声が落ちた。その顔には、一切の迷いが消え失せていた。
「彼らは自国の命令と、沖縄の友軍を救うという使命に従って前進している。言葉で止まる相手ではない。……一番発射管、注水」
発令所内の空気が、凍りついたように静まり返る。
「艦長! 本当に撃つのか!」深町が詰め寄る。
「今撃たねば、我々は酸欠と放電で沈み、沖縄の防衛線は今度こそ瓦解する」
竹中は即座に言い放った。
「目標、ロナルド・レーガン右舷外軸推進器および右舷舵。目的は撃沈ではない。機動力の完全破砕だ。……十八式重魚雷、射出用意」
「一番管、注水完了! 前扉開!」
水測員の震える手がレバーを倒す。
だが、十万トンの巨大空母のスクリュー直下での雷撃は、教科書通りの精密誘導など許さない混沌の渦であった。
レーガンが全速へ移行したことで、海中には毎秒数十万リットルの海水が巻き込む巨大な渦流と、厚さ数十メートルのキャビテーション気泡の壁が形成されていた。有線誘導の細い光ファイバーは、激しい乱流に揉まれれば一瞬でスクリューに巻き込まれて破断する。さらに、魚雷自身の音響画像シーカーも、気泡の破裂音が放つ猛烈なホワイトノイズによって、目標の輪郭を捉えきれずに迷走するリスクを極限まで孕んでいた。
「光ファイバー繰り出しテンション、異常上昇! 乱流による断線限界値まであと十パーセント!」
「音響シーカー、目標信号捕捉率六割! 背景雑音が強すぎます!」
石倉が叫ぶ。
「信管調定、磁気および音響複合近接! 撃てッ!」
竹中の手が振り下ろされた。
ズンッという重い衝撃が耐圧殻を伝った。
高圧気体によって押し出された十八式重魚雷が、スクリューを回転させて漆黒の水塊へと飛び出した。
時速五十ノットを超える猛烈な突進。しかし、射出された直後、レーガンの四番スクリューが叩き出す猛烈な下降流に叩かれ、魚雷の弾道は大きく下方へとねじ曲がった。
「誘導線、テンションオーバーにより破断! 自律追尾モードへ移行!」
「外れるか……!?」深町が拳を握りしめる。
偶然と必然の交差。
断線した魚雷は、機載の慣性ジャイロと終末自律ソナーのプログラムに従い、気泡の渦を突き抜けて右上方へと舵を切った。目標の右舷内軸を目指していた魚雷は、乱流によって数メートル外側へと逸脱――しかしそのズレが、逆に転舵中であったレーガンの右舷外軸プロペラシャフトと、巨大な右舵の直下という、最も脆弱な急所の直下へと魚雷を滑り込ませた。
耐圧殻を伝わる磁気センサーの作動音。
直後――。
ドォォォォォォンッ!!
海中深く、鈍く重い金属の破断音と、大気を引き裂くような爆縮の衝撃波が轟き渡った。
深海百メートルにいた「そうりゅう」の船体すら激しく横揺れし、計器盤の針が一斉に振り切れる。
十八式魚雷の弾頭に充填された高性能炸薬が、レーガンの右舷艦尾直下で炸裂したのだ。
海水という非圧縮性流体を介して叩きつけられた猛烈なバブルパルスが、十万トンの巨体を一瞬だけ持ち上げ、次いで巨大な空洞へと引きずり落とした。
直撃ではない。だが、水圧の鉄槌は、直径七メートルを超える超硬ジュラルミン製のプロペラブレード二枚を根元からへし折り、強大な推進力を伝達していた右舷主軸を飴細工のように歪ませた。さらに、爆圧によって右舷舵が吹き飛び、油圧シリンダーが破断して作動油が白泡の中に吹き荒れる。
「……レーガン、右舷軸停止! 軸受部の焼き付き音を探知!」
石倉が息を呑みながら報告する。
「推進器の回転周期、不規則化! 船体が左舷へ回頭を始めました! 面舵が効かず、直進不能です!」
海上では、十万トンの巨艦が黒煙と激しい白波を撒き散らしながら、操舵不能のままゆっくりと左旋回を始めていた。
四軸のうち二軸が損傷し、舵を失った原子力空母は、もはや沖縄への突入コースを維持すること叶わず、制御不能の巨大な漂流物として太平洋のただ中に立ち往生を余儀なくされたのである。
撃沈ではない。しかし、大和の主砲弾によるカタパルトの破壊と、深海からの魚雷による推進系の粉砕――過去と未来の挟撃によって、米海軍の最強の巨獣は、その牙と足を完全に奪い去られていた。
だが、「そうりゅう」の発令所には、勝利の歓声など響かなかった。
「主蓄電池、残量四パーセント! モーター過熱、電圧低下!」
佐久間機関長の声がかすれる。
竹中二佐は、汗にまみれた帽子を脱ぎ、ゆっくりと深町を見据えた。
「……メインバラストタンクブロー。浮上する」
竹中の静かな下令が下る。
「全乗員、衝撃に備えろ。これより本艦は、米軍の制空・制海権のただ中へ身を晒す」
シューッという圧縮空気の咆哮とともに、「そうりゅう」は重い艦首を持ち上げ、死力を尽くした深海を離れ、敵機の跳梁する荒れ狂う東シナ海の海面へと向かって浮上を開始した。---




