生きて帰るぞ――深海の漂流
## エピソード78 深海の代償
昭和二十年四月二十一日、午後十時。
沖縄本島東方海域。
海面下四十メートル。
海上自衛隊そうりゅう型潜水艦「そうりゅう」の発令所には、勝利の歓声など存在しなかった。
数時間前、最後の十八式魚雷二本を使い切り、米原子力空母「ロナルド・レーガン」の航行能力を奪った。
その後、レーガンは沖縄方面への航空作戦を停止し、戦域から離脱を開始した。
任務は果たした。
だが、その代償として「そうりゅう」自身もまた、潜水艦としての機能を失いかけていた。
「AIP系統、再始動不能」
機関科先任曹長・佐久間が、非常灯に照らされた計器盤を確認した。
「液体酸素残量、実用下限以下。スターリング発電機は停止状態を維持。十八式魚雷、全弾消費。予備魚雷なし」
竹中二等海佐は黙って聞いていた。
「主蓄電池は?」
「表示上、一パーセント未満です」
発令所が静まり返る。
「ただし完全放電させれば、操舵、トリム調整、非常照明、通信、二酸化炭素除去まで失います。推進へ回せる電力は、もうありません」
副長・深町二佐が海図へ視線を落とした。
「沖縄まで、まだ距離があります」
「分かっている」
竹中は答えた。
艦内の温度は三十度を大きく超えていた。
換気量は最低限。
乗員たちは汗で濡れた作業服を肌へ貼り付かせ、酸素の薄くなった重い空気を浅く吸っている。
誰もが頭痛と倦怠感を抱えていた。
それでも、竹中は電力を生命維持装置から奪おうとはしなかった。
「主電動機停止」
「艦長?」
「これ以上、推進に電気を使わない」
竹中は海図台を指した。
「残存電力は深度制御、非常系統、生命維持へ限定する。現在位置から西へ流れる潮を利用し、沖縄東方の浅海域へ近づく」
深町が息を呑んだ。
「漂流するのですか」
「漂流ではない」
竹中は静かに答えた。
「艦を生かす」
***
ほどなく、「そうりゅう」の推進器から規則的な回転音が消えた。
船体は完全な停止状態にはならない。
海中には潮流がある。
そして潜水艦自身も、トリムタンクと舵を使ってごく僅かな負浮力を保ち、艦首をわずかに上げた姿勢を取った。
前進力を失った巨大な船体は、ゆっくりと深度を下げながら、水中を滑るように移動していく。
それは航空機の滑空にも似ていた。
ただし、一度深く沈みすぎれば、再び上昇させるための電力はほとんど残っていない。
「深度、四十五」
水測長・石倉先任伍長が報告する。
「降下率、毎分〇・三メートル」
「トリムそのまま」
竹中が命じる。
「五十メートルを越える前に微調整する。海底までの余裕は?」
「測深値、およそ百四十メートル。西へ行くほど浅くなります」
竹中は頷いた。
海底へ沈座するつもりはなかった。
海底地形も底質も確実ではない。
推進器や舵、ソナーを傷つければ、本当に帰還手段を失う。
今必要なのは、できるだけ浅い安全海域へ辿り着き、外界の脅威が低下するまで艦を浮かせ続けることだった。
「換気系統、最低運転」
佐久間が報告する。
「二酸化炭素吸収装置も間欠運転へ切り替えます」
照明が一つ消えた。
続いて、使われていないコンソールが暗くなる。
発令所から光が少しずつ失われていった。
「ソナーは?」
「受動監視だけ維持します」
石倉が答えた。
「レーガンの推進音は東へ遠ざかっています。護衛艦の探信音も減衰中」
その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。
深町が竹中を見た。
「艦長……魚雷はゼロです。推進電力もない。敵が戻れば、もう戦えません」
「戦う必要はない」
竹中は即答した。
「我々の仕事は終わった」
それは敗北を意味する言葉ではなかった。
「大和は呉へ着いた。レーガンも止めた。首里には時間を渡した」
竹中は暗くなった発令所を見渡した。
「今度の任務は、乗員を一人でも多く生きて帰すことだ」
誰も反論しなかった。
午後十時十八分。
「そうりゅう」は、ほとんど音を発することなく沖縄東方の暗い海中をゆっくりと流れていた。
魚雷、ゼロ。
AIP、停止。
主蓄電池、実質枯渇。
戦闘能力という意味では、すでに牙を失った鉄の巨体に過ぎない。
だが、それは棺ではなかった。
艦内にはまだ人が生きている。
だから竹中は、最後の一ワットまで戦闘ではなく生還のために残した。
深海で撃ち尽くした魚雷よりも、その判断こそが、未来から来た自衛官たちがこの時代へ持ち込んだ最も大きな違いだった。
「艦長」
石倉が静かに告げた。
「西方、極めて微弱ですが……沖縄沿岸と思われる水中雑音です」
竹中は暗闇の中で目を閉じた。
「よし」
そして、短く命じた。
「生きて帰るぞ」
推進器を止めた「そうりゅう」は、潮流と僅かな浮力制御だけを頼りに、夜の沖縄へ向けて静かに滑り続けていた。




