坊ノ岬沖海戦・後編――沈まなかった大和
昭和二十年四月七日、午後十二時十五分。坊ノ岬沖。
海面すれすれを這うように広がる重い硝煙とスコールが、昼なお暗い海の視界をさらに濁らせ、鉛色の水面を重々しく染め上げていた。
初撃の三式弾と護衛艦「まや」の長距離迎撃によって、本来の精緻な統制を大きく乱された米第58任務部隊の艦載機群であったが、その残余百数十機は、依然として凄まじい執念を燃やし、雲底を割って海面を舐めるようにして「大和」へと肉薄していた。
大和の第一艦橋。耳を劈く対空戦闘ラッパの電子音が鳴り響き、各部署からの絶叫と復唱が交錯する。
「時代間連絡席! 敵機、大和の死角、左舷回頭限界点より低空侵入! 魚雷を抱えたアベンジャー八機、距離八〇〇〇!」
情報幕僚・山名三尉が、ヘッドセットを強く押さえながら怒鳴るように叫んだ。
上空で持続旋回する無人機MQ-9B「シーガーディアン」と、護衛艦「まや」の高性能対空レーダーが、海面反射の荒いノイズに紛れて突進する敵雷撃機を克明に捕捉し続けている。Link 16というデジタルネットワークを持たない大和に対し、山名と通信班は、大和の「九八式射撃盤」と各高角砲台の管制盤へ、手書きの調定諸元を秒単位で休むことなく流し込み続けていた。
「左舷高角砲群、方位二四〇、高度二〇〇、信管即時破裂! 撃ち落とすな、水柱の壁を作れッ!」
江島砲術長が、怒号のような野太い号令を下す。
大和の左舷舷側にずらりと据えられた八九式十二・七センチ連装高角砲が一斉に火を噴き、連続する発射音が艦体を震わせた。炸薬の黒煙が海面を覆い尽くし、無数の破片と巨大な水飛沫が、敵機の進行方向を塞ぐ高さ数十メートルのカーテンを形成する。
米軍パイロットたちは突然目の前に現れた弾幕の壁に視界を完全に奪われ、決定的だったはずの魚雷発射角を狂わされた。荒波の海面に投下されたMark 13航空魚雷の多くは、大和の巨体を数十メートルから数百メートルも逸れ、虚しく白い航跡を描いて通り過ぎていく。
「魚雷二本、艦尾を通過! 命中なし!」
だが、その防空陣の最前線に身をさらして盾となっていた護衛艦「むらさめ」に、過酷な代償が迫っていた。
前衛の位置で62口径76mm単装速射砲を毎分八十発の猛烈なサイクルで撃ちまくり、大和への雷撃ラインを頑強に遮断し続けていた「むらさめ」に対し、米爆撃機隊はたまらず怒涛の報復攻撃を開始したのだ。
「左舷上空より急降下機! F6FおよびSB2C、四機!」
「むらさめ」の戦闘指揮所(CIC)で、対空レーダー手が悲鳴を上げる。
「射撃指揮装置FCS-2、追尾不能! 熱帯性のスコールによる電波減衰が激しすぎます!」
激しい豪雨がレーダー波を乱反射させ、精密な自動追尾を狂わせる。未来の高度な電子兵器といえども、気象という地球規模の物理的暴力からは完全に逃れることはできなかった。
艦長が苦渋の決断を下すように叫ぶ。
「CIWS(高性能20mm機関砲)、手動による近接自動迎撃へ切り替え!」
甲板上に据えられたファランクスが甲高いモーター音を唸らせて火を噴き、毎分四千五百発の白光の奔流が、急降下してきたヘルダイバーの一機を空中で両断した。しかし、それに続く僚機が投下した五百ポンド爆弾が、「むらさめ」の左舷至近の海面へと突き刺さり、間髪を入れずに炸裂した。
ドォォォォンッ!
凄まじい至近弾の爆圧と衝撃波が、「むらさめ」の軽量な船体を文字通り持ち上げる。強固な水密隔壁が悲鳴を上げて歪み、無数の破片が上部構造物を蜂の巣のように貫いた。
「左舷機械室、浸水拡大! 第一ボイラーの蒸気圧が急激に低下しています!」
「各区画、火災発生! 応急木舞と消火班、直ちに現場へ急げ!」
旧日本海軍の重厚な防弾装甲艦とは異なり、現代の護衛艦は対弾防御よりも機動性と軽量化を優先しているため、爆弾の直撃や至近弾による水中爆発の破片に対して極めて脆弱であった。艦尾付近から立ち上る黒煙。それでも「むらさめ」の乗員たちは、訓練し尽くされた冷徹なダメージコントロールに従い、次々と防水扉を閉鎖して浸水を最小限に局限していった。
その壮絶な光景を、大和の第一艦橋から有賀艦長が双眼鏡を構えて凝視していた。
「……未来の艦が、我が盾となって深手を負っている」
有賀の奥歯がギリリと音を立てて鳴った。未来から来た彼らには、母港も補給ドックも存在しない。被弾がいかに致命的であるかを、有賀は痛いほど理解していた。
「砲術長! 副砲およびすべての高角砲、むらさめの左舷空域へ弾火を集中しろ! 味方の退路を開くのだ!」
「副砲、装填よし! 撃てッ!」
大和の十五・五センチ三連装副砲が重々しく咆哮し、炎上する「むらさめ」に追い討ちをかけようと群がっていた米雷撃機の後背へ、直撃弾級の散弾を炸裂させた。
一方、この防空戦の要であるイージス艦「まや」のCICにも、冷酷な限界の足音が近づいていた。
「司令、SM-2対空ミサイルの残弾、残り十八発です!」
武器管制士官の悲痛な報告が、片倉一佐の耳を打った。
「ESSMも残弾三割を切りました。これ以上の乱射は、沖縄到達後の艦隊防空能力を完全に失うことになります」
片倉は血の滲むような思いで奥歯を強く噛みしめた。
米機動部隊の第二次攻撃隊が、雲の切れ間で再び編隊を組み直しているのがレーダーに映っている。ここにある貴重な弾薬をすべて使い切れば、今この瞬間は凌げるかもしれない。だが、すべてのミサイルを失ったイージス艦は、広大な海のただ中に浮かぶ巨大な無力な標的に成り果てる。
「……ミサイルの発射を全面的に停止せよ」
片倉の下した冷徹な下令に、CICの空気が一瞬にして凍りついた。
「各艦の近接防御火器(CIWS)のみを最終的な防空網として残し、艦隊全体の電子妨害(ECM)を最大出力に引き上げろ。敵の無線通信帯域に高出力のホワイトノイズを叩き込み、攻撃の連携を完全に寸断するんだ」
「まや」のマストに備わる高出力ジャミング装置が、大気を激しく震わせて見えない電磁波の嵐を放ち始めた。
米軍機たちの機内無線機から猛烈なノイズ音と金切り声が噴き出し、攻撃部隊の指揮官の怒号が完全に掻き消される。レーダーを持たず、編隊間の無線音声連絡のみに頼る1945年の米海軍航空隊は、突如として統制を失い、各機が孤立した群れへと変わった。
その致命的な混乱の隙を、見逃すわけにはいかなかった。
「大和、全主砲斉射――!」
江島砲術長が、山名から手渡された最後の三式弾諸元に基づき、最後の仰角調定を完了させた。
三度目となる、天地を揺るがすすさまじい轟音。
低空に降りて混乱し、目標を失って彷徨っていた米軍アベンジャー雷撃隊の直上で、四十六センチ砲の三式弾が一斉に炸裂した。巨大な炎の雲が空中に広がり、無数の破片を浴びた十数機が、木の葉のように次々と海面へ叩きつけられていく。
午後一時四十分。
空を埋め尽くしていた爆音と濃密な硝煙が、スコールの激しい雨脚に洗われて次第に遠ざかっていった。
米国の第一次および第二次攻撃隊は、想定外の精密な弾幕と未知の通信麻痺、そして大和の巨砲による超長距離迎撃によって、攻撃隊全体の半数近くを喪失。もはや統制ある反撃は不可能となり、母艦機動部隊への全機退却を開始したのである。
海面に広がる分厚い油膜と無数の機体破片。
大和の損害は小破にとどまった。左舷に数発の機銃掃射と至近弾を受けたものの、史実のように魚雷が左舷の一点に集中することはなく、奇跡的に航行能力を完全に維持していた。
だが、護衛艦「むらさめ」は艦尾に重傷を負い、速力は十八ノットへと大きく低下。「まや」の対空ミサイルは残り僅かとなり、上空を舞っていた無人機MQ-9Bの燃料インジケーターもいよいよ限界を告げていた。
大和の第一艦橋で、有賀艦長は静かに軍帽を取り、雨と煙に煙る海原を見つめた。
「……防ぎ切ったか。坊ノ岬の海で、我が大和がこうして生き残るとはな」
その横で、山名三尉は荒い息を吐きながら、冷徹な現実をしっかりと噛み締めていた。
歴史の歯車は、確かに激しく軋みを上げて歪んだ。しかし、その歴史改変の代償として支払われた海上自衛隊側の深刻な損耗と弾薬の枯渇は、これから彼らが向かう沖縄本島周辺の地獄が、さらに過酷な死闘になることを雄弁に物語っていた。




