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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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現代という幕間 第3章:散らかった回路と白昼夢(エントロピーの増大)


僕の視界を占拠しているのは、無秩序ランダムネスの極致だった。


四畳半の自室は、今や一つの閉鎖系(外部との物質のやり取りがない熱力学的なシステム)として、エントロピー(系の無秩序さや乱雑さの度合いを示す物理量)の増大を止める術を失っていた。床一面を覆うのは、脱ぎ捨てられた衣類の地層、中身が乾燥してこびりついたコンビニのパスタ容器、そして数週間前に開けたきりの工学雑誌。それらは、僕という制御系コントロール・システムが、環境を維持・管理するための出力を完全に放棄した結果生じた、物理的なエラーログ(異常の記録)そのものだった。


「片付けなければならない」


脳内の演算ユニット(中央処理装置)は、その結論を論理的に導き出している。ゴミを拾い、分類し、所定の廃棄場所へと移動させる。それは工学的には極めて単純な「ソート(並べ替え)」と「デリート(消去)」のプロセスに過ぎない。しかし、その実行コマンド(命令)を筋肉という駆動部アクチュエータへと送るためのパス(経路)が、どこかで深刻な断線オープン・サーキットを起こしていた。


僕は、その堆積物の中に沈み込むようにして座り、tDCS(経頭蓋直流電気刺激)による微かな電気の余韻を感じていた。アトモキセチン(ノルアドレナリンを増やし、注意力を高める薬)の増量により、僕の認知機能は確かに明晰さを増している。以前なら、この部屋の惨状を前にしただけで思考がパニックを起こしていたが、今は違う。


今の僕は、この「汚部屋」という名のカオス(決定論的な規則に従いながらも、予測不能な振る舞いをする複雑な現象)を、まるで他人事のように冷静に観察することができていた。それが、この「無関心アパシー」という新しいフェーズの恐ろしさだった。


「……美しいな」


ふと、そう思った。パスタ容器に付着したトマトソースの飛沫が、不規則なフラクタル(図形の部分と全体が自己相似形になっている構造)を描いている。窓から差し込む夕光が、空のペットボトルを透過し、床に複雑な屈折のパターン(コースティクス:光が曲面で反射・屈折して生じる光の集束模様)を投影している。


その瞬間、僕の意識は、現実の座標を離れて「白昼夢デイドリーム」という名の仮想化環境(バーチャル・マシン:コンピュータ内に構築された、仮想的な実行環境)へと遷移(システムがある状態から別の状態へ移り変わること)し始めた。


それは、現実の物理法則をベースにしながら、僕の脳が勝手にアップデート(機能の更新)を施した、極めて高精細なシミュレーションの世界だ。


白昼夢の中の僕は、この散らかった部屋にいない。

僕は、どこまでも続く無機質な白い空間に立っている。そこは、エントロピーの増大が完全に停止した、熱死(熱力学第二法則に従い、有効なエネルギーが失われた宇宙の終焉状態)の後のような世界だ。僕はそこで、巨大な機械時計の歯車を一コマずつ、完璧な精度で組み上げている。


歯車が噛み合う瞬間の音は、現実世界のノイズ(不要な信号)を一切含まない、純粋な正弦波(サイン・ウェーブ:最も基本的な波形を持つ周期的な振動)として響く。そこには、僕を急かす「締め切り」も、僕を裁く「社会の視線」も存在しない。僕は、ただ論理の美しさだけを追求する、孤独なエンジニア(技術者)としてそこに存在していた。


この「不適応的白昼夢(日常生活に支障をきたすほど、過度かつ没頭的に耽る空想)」は、僕にとってのセーフモード(機能を最小限に制限し、システムの修復を図るための動作モード)だった。


ADHD(注意欠如・多動症)の脳にとって、現実世界はあまりにも入出力インプット・アウトプットの負荷が大きすぎる。絶え間なく変化する光、音、他者の感情、そして自分自身への期待。それらすべての割り込み(インターラプト:実行中の処理を中断して緊急の処理を優先させること)を処理しきれなくなった時、僕の脳は自動的に「現実」との接続を断ち、この摩擦のない空想世界へと逃避するのだ。


「お兄ちゃん、入るよ」


現実世界からの割り込みが、妹の声という形で発生した。

僕の白昼夢という仮想化環境が、一瞬でシャットダウン(システムを終了させること)される。視界に再び現れたのは、ゴミの山と、ドアの隙間からこちらを覗く妹の顔だった。


「……また、ボーッとしてたでしょ。お父さんから聞いたよ。tDCSの調子はどう?」


彼女は、僕の部屋の惨状を責めることもなく、慣れた手つきで足元のスペースを確保しながら入ってきた。彼女は、父の「多動」も、僕の「沈黙」も、まるで気象現象の一つであるかのように受け入れてくれる、この家族におけるバッファ(衝撃を緩和し、システムを安定させる緩衝材)のような存在だった。


「頭は働くよ。計算も速くなった。でも……」

「何もやる気が起きないんでしょ?」


妹は、僕の言葉を先回りして出力した。


「お父さんはあんなに動けるのにね。あ、これ、お母さんから。キャンプの時の写真、データで送ってって言ってたやつ」


彼女が置いたタブレット端末には、かつてのキャンプの写真が表示されていた。

父が誇らしげに焚き火を囲み、妹が笑い、そして僕が少し離れた場所で、地面の石ころをじっと見つめている。


当時の僕は、石の表面にある微細な凹凸を「地図」に見立てて、その中にある文明を空想していた。父がアウトドアという物理的な刺激ダイナミック・インプットに情熱を燃やしていた一方で、僕はすでにその頃から、内向的なシミュレーション(スタティック・プロセス)の中に自分の居場所を見つけていたのだ。


「お父さんは、外の世界を自分の力で変えることに喜びを感じるタイプだけど、お兄ちゃんは、自分の中の世界を完璧に作り上げることに執着するタイプなんだね。同じADHDでも、方向性が真逆(ベクトルが180度異なること)なんだよ」


妹の分析は、工学的にも妥当だった。

父のADHDは「出力過多」であり、僕のADHDは「内部演算への過度なリソース割譲」だった。どちらも、標準的な社会の仕様スペックからは外れている。


「でもさ、お兄ちゃん。三日後の『ジョブ体験』、どうするの? この部屋の状態じゃ、現地に辿り着く前にシステムダウン(動作の完全停止)しちゃうよ」


彼女の言葉は、僕が最も恐れていた現実的な脆弱性(セキュリティー・ホール:システムの安全上の欠陥)を突いていた。


工学部の三学年に課された、最低三日間の就業体験。それは、僕のような「内向的なシミュレーション」に最適化された人間にとって、最も過酷なストレステスト(システムに高い負荷をかけ、耐久性や反応を調査する試験)となるだろう。


見知らぬオフィス、見知らぬ上司、そして予測不能な対人コミュニケーション。そこでは「白昼夢」への逃避は許されない。僕は、この散らかった自室という名のコックピット(操縦席)から這い出し、生身の自分を、ノイズの激しい外界へと接続プラグインしなければならないのだ。


「……分かっているよ。片付けも、少しずつやる」


僕は力なく答えたが、視線は再び、床に落ちた空き缶のラベルに向かっていた。ラベルのフォント(書体)の曲線美について、脳が勝手に幾何学的な解析を開始しようとしていた。


妹が去った後、僕は再び静寂に取り残された。

tDCSによる電流は、僕の脳に「考える力」を与えた。薬は、僕の脳に「安定」を与えた。しかし、この増大し続けるエントロピーを押し返し、ゴミ袋を手に取るための「熱源(エネルギー源)」は、依然として見つからないままだった。


僕は、ゴミの山の中に横たわった。

体温が、冷たいフローリングへと伝導(ヒート・コンダクション:温度の高い方から低い方へ熱が移動する現象)していく。


現実の僕は、片付けられない、動けない、興味を持てない欠陥品デフレクトだ。

でも、白昼夢の中の僕は、完璧な秩序を司るエンジニアだ。


その二つの位相(フェーズ:周期的な現象において、特定の瞬間の状態を示す量)の乖離が大きくなればなるほど、僕の精神という回路には、目に見えない歪み(ディストーション:信号が元の形から崩れてしまう現象)が蓄積されていく。


僕は目を閉じた。

現実のノイズをフェードアウト(音量を徐々に下げて消していく手法)させ、仮想の世界をフェードイン(音量を徐々に上げていく手法)させる。


三日後のジョブ体験という破局(カタストロフィ:突然の激変や大破局)が訪れるまで、僕は、この散らかった回路の隅っこで、静かに白昼夢を回し続けるしかなかった。エントロピーが増大し、部屋がゴミで埋め尽くされようとも、僕の脳内だけは、どこまでも澄み渡った無音の宇宙であり続けた。


それが、低電圧で生きる僕に許された、唯一の、そして絶望的な生存戦略サバイバル・プランだった。


第3章・完

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