現代という幕間 第4章:三日間の強制介入(ジョブ体験のハードル)
大学のポータルサイトから届いた一通の通知が、僕の脳内にある脆弱な平穏を粉々に粉砕した。
「三学年対象:キャリア形成科目『ジョブ体験(実際の職場環境に身を置き、実社会の業務を短期間体験する学修プログラム)』実施に関する最終確認について」
画面に表示されたその無機質な文字列は、僕にとって、設計限界(システムが耐えられる最大の負荷や応力の限界値)を大幅に超過した過酷なストレステスト(意図的に高負荷を与え、システムの挙動や耐久性を確認する試験)の宣告に他ならなかった。単位取得、そして卒業のために回避不能な「強制介入」。それは、自室の床に落ちた靴下を一足拾い上げることすらままならない僕という欠陥機にとって、エベレスト登頂を命じられるに等しい絶望的なミッションだった。
「最低三日間、午前九時から午後五時まで。遅刻・欠勤は原則不可……」
規約を読み進めるほどに、僕の入力インピーダンス(入力側から見た信号の通りにくさを表す数値)は極大化し、外界からの要求を拒絶し始める。
ADHD(注意欠如・多動症)の脳を持つ僕にとって、最も困難なのは「持続的な注意の維持」と「非定型(あらかじめ決まった手順がないこと)な事態への即応」だ。それが興味のない対象であればなおさらだ。脳内のドパミン(快楽や意欲、報酬系を司る神経伝達物質)が枯渇している状態では、三分間の静止ですら苦行に近い。それを二十四時間、三日間にわたって「正常な社会人」を擬態(ミミクリー:周囲の環境に溶け込み、正体を隠すこと)し続けなければならない。これは、容量不足のバッテリーで巨大なプラントを強引に稼働させるような無謀な試行だった。
僕は、tDCS(経頭蓋直流電気刺激)の出力を、普段よりも一段階引き上げた。
頭皮を突き刺すような鋭いピリピリ感が、霧(ブレイン・フォグ:頭に霧がかかったようにぼんやりし、思考が働かない状態)の中に強引に道を作る。アトモキセチン(ノルアドレナリンを増やし、不注意を改善する非刺激薬)の増量により、僕の認知機能は確かに「定格(あらかじめ定められた標準的な動作条件)」を維持している。しかし、その内実を支えるべき「関心」という名のエネルギー源は、依然として絶対零度(摂氏マイナス273.15度。すべての分子運動が停止する理論上の最低温度)のまま凍りついていた。
「お兄ちゃん、これ持っていきなよ。お父さんが選んだんだって」
妹が持ってきたのは、ノイズキャンセリング機能の付いた高価なイヤホンと、父からのメモだった。
『現場はノイズ(不要な信号)の塊だ。自分の周波数を守るためのフィルター(特定の成分だけを抽出し、他を排除する装置)を持っておけ。お前なら大丈夫だ』
父らしい、短絡的だが力強い助言。ハイパー・アクティブ(多動性が極めて高く、常に刺激を求める性質)な父にとって、新しい職場という環境は、新しいキャンプ場を見つけるようなワクワクする「入力」でしかないのだろう。しかし、僕にとってそこは、僕というシステムを物理的にも精神的にも磨耗させる「摩擦」に満ちた地獄でしかなかった。
ジョブ体験の前夜、僕は自分の部屋の惨状を前にして、立ち尽くしていた。
明日から「外」へ出るためには、まずこの「内」を整理しなければならないという強迫観念(特定の考えが頭から離れず、強い不安を感じること)に駆られていた。しかし、いざゴミ袋を手に取ると、僕の意識は再び「白昼夢」の深淵へと滑り落ちる。
白昼夢の中の僕は、この散らかったゴミの一つひとつを、宇宙に漂う小惑星として観測している。
僕はそれらを重力制御によって完璧な軌道へと配置し、美しい小惑星帯を作り上げている。そこには混乱も、腐敗も、三日間の拘束もない。ただ、天体力学の法則に従って整然と回転する、冷徹で静謐な秩序だけがある。
「……まただ」
気づけば、一時間が経過していた。手に持ったゴミ袋は空のままで、部屋のエントロピー(系の無秩序さの度合い)は一ミリも減少していない。
白昼夢は、僕の脳が現実の過負荷を避けるために自動的に展開する保護回路だ。現実のタスクがあまりにも重すぎる時、脳は「実行」を放棄し、代わりに「空想」という名の仮想メモリ(物理的なメモリ不足を補うために、ハードディスクの一部をメモリとして扱う仕組み)を消費し始める。
僕は、片付けを諦めた。
この混沌を抱えたまま、僕は戦場(ジョブ体験先)へ赴くしかない。
僕が選んだ体験先は、松山市内にある中規模の精密機器保守会社だった。かつて休学中に田口工作所で触れた機械への興味の残滓(ざんし:残りかす)が、微かに僕の背中を押したのだ。しかし、今の僕には、あの頃に感じた「機械の呼吸」を読み取る情熱すら、厚い氷の下に沈んでいた。
午前三時。
僕はベッドの中で、自分の鼓動を「エラー・パルス(異常な信号)」としてカウントしていた。
アトモキセチンの血中濃度は安定しているはずだ。tDCSによる前頭前野の活性化も完了している。論理的には、僕は「動作可能」な状態にある。だが、僕というシステムの基幹部分である「自己効力感(自分が目標を達成できるという確信)」は、今にもシャットダウン(システムを終了させること)しそうなほど減衰(げんすい:時間の経過とともに信号が弱まっていくこと)していた。
「もし、初日でフリーズ(動作停止)してしまったら?」
「もし、上司の指示という名の入力信号を、僕の脳が誤変換してしまったら?」
負のシミュレーションが、脳内のフィードバック・ループ(出力の一部を入力に戻し、元の状態をさらに増幅させる仕組み)を加速させ、不安という名の熱を発する。
僕は、目を閉じて、無理やり自分を「スタンバイ・モード(低電力の待機状態)」へと移行させた。
明日からの三日間は、僕という人間が、社会という名の巨大なグリッド(網目状に構成されたインフラや供給網)に再接続できるかどうかを判定する、決定的な「稼働試験」になるだろう。
たとえ、そこに「興味」という名の燃料がなくても。
たとえ、僕の内部がゴミの山という名のエントロピーに支配されていても。
僕は、父がキャンプで見せてくれたあの「火を熾す」という行為の、その本質だけを借りることにした。熱を求めるのではない。ただ、化学反応としての「燃焼」を、無感情に遂行するのだ。
夜明けが、ゆっくりと僕の部屋の輪郭を浮き彫りにしていく。
積まれたゴミの影が、巨大な電子部品の断片のように見えた。僕は、重い体を起こし、ビジネススーツという名の制服に身を包む。
その瞬間、僕の脳内では「現実対応モード」という名の古いバッチ処理(あらかじめ定めた手順に従って、複数の処理を一括で行うこと)が、ぎこちなく起動音を上げた。
情熱はない。関心もない。
ただ、三日間という名の「実行時間」を完走すること。
それだけを唯一の目的関数(最適化問題において、最大化あるいは最小化したい対象となる関数)に据えて、僕はエントロピーの支配する部屋を後にした。
第4章・完




