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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第2章:銀色の静脈(未破裂脳動脈瘤根治術)


視界が歪み、量子的なノイズが網膜の上で爆発する。クオンタム・ダイブ(量子もつれを利用して過去の神経ログを再構成し、意識を同期させる技術) が深度を増し、私の意識は大河内教授という個人の「記憶の深淵」へと完全に埋没していった。

西暦2000年。この並行世界(ネオ東京)では、すでに光子コンピュータ(光の粒子で演算を行う超高速計算機) が社会インフラを支えていたが、医学という泥臭い現場においては、依然として執刀医の肉体的な「技」が、生と死を分かつ絶対的な境界線であった。

私の鼻腔を突くのは、焼灼臭(電気メスで組織を焼いた際の独特の焦げ臭い匂い)と、強力な殺菌剤(手術室の無菌状態を保つための薬品)の入り混じった、ひどく人工的で冷徹な香りだ。2050年の医療センターのような、精神を安定させるアロマ・コロイド(ナノレベルで拡散される芳香粒子)による演出など微塵もない。

「……顕微鏡、入れます」

自分の声だ。しかし、それは大河内教授の、使い古された楽器のような低く掠れた声だった。 私は、重厚なオペレーティング・マイクロスコープ(手術用顕微鏡) の接眼レンズに顔を押し当てる。レンズ越しに広がるのは、直径わずか数センチメートルの術野(手術を行うために露出させた患部とその周辺) に構築された、赤と白の小宇宙だった。

そこには、開頭術(頭蓋骨の一部を切り外して脳を露出させる手術) によって剥き出しにされた、拍動する脳が鎮座していた。 デュラ(硬膜:脳を包む最も外側の強靭な膜)を反転させ、その下に透けて見えるのは、宝石のように美しいクモ膜(脳を包む中間層の薄い膜) と、その間を縫うように流れる脳脊髄液(脳と脊髄の周囲を満たす透明な液体)だ。

「シルビウス裂(大脳の外側溝にあたる、前頭葉と側頭葉を分ける深い溝) を剥離します。マイクロ・セパレーター(微細な組織を傷つけずに分けるための剥離ヘラ)を」

私の右手――大河内の手が、吸い付くような精度で器具を操る。2050年のナノ・マニピュレーター(原子レベルの精度で動作する極小の手術アーム)に比べれば、この金属の棒はあまりに無骨で、原始的に思える。しかし、大河内の指先には、組織の僅かな抵抗、血管の弾力、そして「破れるか、耐えるか」という極限の情報の断片が、体性感覚(皮膚や筋肉を通じて感じる感覚)としてダイレクトに流れ込んでいた。

慎重に、蜘蛛の糸よりも細い繊維を一本ずつ外していく。 目的の場所は、内頸動脈(脳の前方に血液を送る太い幹線道路) の分岐点。そこに、未破裂の脳動脈瘤(血管の壁が弱くなり、風船のように膨らんだコブ) が潜んでいる。

「……見えた」

思わず、脳内で呟く。

光り輝く脳の深部、暗闇の中に、それはあった。直径7ミリメートルほどの、不気味に赤黒く変色した「死の果実」。

ドーム(動脈瘤の膨らんだ先端部分)は、今にもブラスト(破裂) しそうなほどに壁が薄く、その下を流れる血流の渦が見えるかのようだった。もし今、ここでこのコブが裂ければ、クモ膜下出血(脳の表面に激痛と致命的なダメージをもたらす出血) が引き起こされ、このシミュレーターのログはそこで途絶えるだろう。

「ネック(動脈瘤の根元にあたる首の部分) を全周性に確認。周囲の穿通枝(脳の深部組織へ直接向かう非常に細い重要な枝)を巻き込んでいないか、注意深く観察しろ」

私は助手に命じながら、バイポーラ(二本の先端間に高周波電流を流して止血・凝固を行うピンセット状の電極) で、動脈瘤に癒着した微細な神経や血管を引き剥がしていく。 一瞬、指先がわずかに震えた。 それは、大河内の緊張ではない。2050年の「安全」に慣れきった私の意識が、この「一発勝負」のアナログな恐怖に耐えきれず、同期が乱れかけたのだ。

『警告。シナプティック・ドリフト(脳波の同期ズレ)を検知。安定剤を投与します』

脳内に、2050年のシステム管理者の無機質な声が響く。瞬時に意識が冷却され、再び大河内の冷徹な集中力が私を支配した。

「……クリップを」

私は手を差し出した。看護師の手によって、杉田クリップ(日本が世界に誇る、チタン製の高性能脳外科用血管保持器具) を装着した持針器が手渡される。 銀色に輝くその小さな金属片こそが、この時代における「魔法のメス」だった。

大河内は、顕微鏡のピントをネックに極限まで合わせる。

深呼吸。心拍の合間を縫う。

心臓が送り出す血液の拍動に合わせて、動脈瘤が「ドクン、ドクン」と私を嘲笑うように揺れている。

(今だ)

私は、クリップの刃先を開き、動脈瘤の根元へと滑り込ませた。

組織を噛む、微かな手応え。

カチリ。

金属が完全に閉じた。

「オクルージョン(血管の閉塞) 完了。コブの拍動が止まったことを確認」

それまでパンパンに膨らんでいた動脈瘤のドームから、一気に活気が失われ、萎びた風船のように力なく垂れ下がった。 私は、ドップラー血流計(超音波を利用して血管内の血流速度を音で確認する装置) のプローベを当てた。

『シュッ、シュッ、シュッ……』

正常な血管からは、力強い血流音が響く。一方で、クリップの先にある動脈瘤からは、死のような沈黙が返ってきた。

「……成功だ。閉頭へいとうの準備にかかれ」

大河内が顕微鏡から目を離した瞬間、私は激しい眩暈に襲われた。

視界が暗転し、術野の鮮やかな赤色が、デジタルな砂嵐へと分解されていく。

『フェーズ2終了。エングラム(記憶の痕跡)の転送を開始。意識を2050年の中間領域へ引き戻します』

システムの声が遠ざかる。

私は、クレイドルの上で目を見開いた。

2050年の医療センター。窓の外には、平和なネオ東京の夜景が広がっている。

しかし、私の右手には、まだあの重たい顕微鏡の感触と、チタン製クリップを閉じた瞬間の「命の重み」が残っていた。

「……博士。2000年の医師たちは、これほどの重圧の中で、毎日を過ごしていたのですか?」

私は、自身のバイオ・モニター(心拍や発汗などの生体情報を表示するパネル)が真っ赤に染まっているのを見て、震える声で尋ねた。

「そうだ、神宮寺。当時の彼らは、神の領域に手を伸ばすために、自らの肉体を極限まで研ぎ澄ますしかなかった。その『指先の職人芸』こそが、後に私たちが手にする自動化技術の、血塗られた設計図なのだよ」

博士の言葉を噛み締めながら、私は次なるダイブへの恐怖と、それ以上の期待を胸に抱いていた。

次は2025年。

人間と機械が溶け合い、脳が「デジタル・ツイン」として複製され始めた時代。

そこには、どのような「絶望」と「希望」が待っているのだろうか。


第2章 完



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