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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第3章:境界なき侵食(悪性神経膠腫 / グリオーマ)


意識の位相が再び反転する。クオンタム・ダイブ(量子もつれを利用して過去の神経ログを再構成し、意識を同期させる技術)が私の精神を揺さぶり、2000年の深淵へとさらに深く沈み込ませていく。前章の動脈瘤(血管のコブ)を巡る緊張感とはまた質の異なる、湿り気を帯びた重苦しい空気が私の意識を包囲した。

西暦2000年。帝都・千代田区にある東都大学医学部附属病院。窓の外には平和な大日本帝国の摩天楼が広がり、磁気浮上式移動体(リニアモーターカー技術を応用した都市型交通機関)が静かに夜の闇を切り裂いている。だが、この無菌室のような手術室の中に流れる時間は、外世界のハイテクとは裏腹に、依然として肉体的で、泥臭い「闘争」の場であった。

「……始めよう。患者は45歳男性。左側頭葉のグリオーマ(脳の神経細胞を支える膠細胞から発生する悪性腫瘍)だ」

再び私の口から――いや、同期対象である大河内教授の口から、低く重い声が漏れる。目の前にあるのは、開頭術(頭蓋骨を切り出して脳を露出させる手法)によって開かれた、暗赤色の小宇宙。前回の動脈瘤が「物理的な爆弾の解体」だとすれば、今回の敵は「脳組織そのものに擬態し、溶け込んだ不可視の怪物」である。

私はオペレーティング・マイクロスコープ(手術用顕微鏡)のレンズに瞳を凝らした。 脳の表面を覆うクモ膜(脳を包む膜の一つ)の下で、正常な脳回(脳の表面の盛り上がり)が僅かに腫脹(しゅちょう:腫れ上がること)している。しかし、どこからが腫瘍で、どこまでが正常な脳なのか、肉眼では判別が極めて困難だ。

「……皮質切開(脳の表面の組織を切り開くこと)を開始する。バイポーラを」

指先が動く。バイポーラ(二本の先端間に高周波電流を流して止血と組織の凝固を同時に行う双極電極)が、慎重に脳の表面を焼き、道を作る。深部へ進むにつれ、組織の色調が微妙に変化し始めた。健康な脳組織が艶やかな乳白色であるのに対し、敵は、僅かに黄色味がかった、澱んだ灰色をしている。

「見えた。これが悪性神経膠腫(周囲の正常組織に木の根のように侵入していく極めて予後が悪い脳腫瘍)の本体だ」

私は、右手に持ったCUSA(超音波の振動で腫瘍組織を粉砕し、同時に吸引する装置)を患部に当てた。

『キーン』という、耳の奥を劈くような高周波音が手術室に響き渡る。CUSAの先端から発せられる目に見えない振動が、脆い腫瘍組織をドロドロの液体へと変え、管の中に吸い込んでいく。

(……なんて不確実な作業なんだ)

私の意識の奥底で、2050年の「私」が戦慄している。2050年の現在、私たちはバイオ・トレーサー(特定の癌細胞にのみ結合し発光するナノ粒子)によって、腫瘍の一細胞単位までを可視化できる。だが、この2000年の執刀医は、わずかな「手応えの差」と「色の濁り」だけで、切るべきか残すべきかを決めている。

「大河内先生、マージン(病変部と正常組織の境界線)が不明瞭です。これ以上は、ブローカ野(言語を司る重要な脳領域)を損傷するリスクがあります」

助手の緊迫した声が飛ぶ。大河内は――私は、手を止めない。

指先から伝わる感感触は、正常な組織が「ゴムのような弾力」を持つのに対し、腫瘍は「腐った果実のような、崩れるような感触」を返してくる。この、言語化できないタクタイル・フィードバック(触覚による情報帰還)こそが、この時代の外科医の生命線だ。

「……わかっている。だが、ここで引けば必ずリカーレンス(再発)を招く。この患者に、次の春は見せられない」

私は超音波吸引(CUSAを用いた組織除去)を継続した。

腫瘍の深部、側脳室(脳の内部にある脳脊髄液が満たされた空間)の壁が見えてくる。そこは、生命の根源に近い領域だ。一瞬でも吸引の力が強すぎれば、あるいは角度を誤れば、患者は二度と言葉を話せなくなるか、一生目覚めない眠りにつくことになる。

『警告。シンクロナイズド・ストレス(同期中の精神的負荷)が許容値を超えています。現実感消失を防ぐため、セーフティ・バイアスを強化します』

脳内に2050年の監視システムのアラートが響くが、今の私にはそれすら遠い世界の雑音にしか聞こえない。私は完全に、2000年の「職人」の執念に取り込まれていた。

血に染まったガーゼ(手術中に血液を拭い取るための布)が次々と交換される。

顕微鏡の視野の中では、赤黒い空洞が徐々に広がっていく。それは「命を救うための破壊」という、外科手術の矛盾を象徴するような光景だった。

「……よし、デバルキング(腫瘍の大部分を削り取る減数手術)終了だ。残存組織は……肉眼的には認められない」

実際には、目に見えないレベルで無数の腫瘍細胞が周囲の脳組織へ深く根を張っていることを、私は知っている。当時の化学療法(抗がん剤による治療)や放射線療法(高エネルギーの放射線を当てて癌細胞を殺す治療)の限界も知っている。この完璧に見える切除をもってしても、数年後、あるいは数ヶ月後には、この空洞の縁から再び暗雲が湧き上がることを。

「先生、お見事です。機能温存も、おそらく……」

助手の称賛の声。だが、大河内(私)の胸にあるのは達成感ではない。

「結局、私はこの組織を完全に理解できていない」という、深淵な無力感だった。

私は顕微鏡から目を離し、血に汚れた手袋を脱ぎ捨てた。

その瞬間、視界が激しく点滅し、2000年の手術室が砂のように崩れ去る。

『ダイブ・フェーズ3、完了。意識をリンボ(接続解除前の待機領域)へ移行します。お疲れ様でした、神宮寺事務官』

暗闇。

そして、25年後の清潔な静寂。

私はシミュレーターのシートの上で、激しい吐き気とともに目を覚ました。

全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。

2050年のネオ東京、帝都の夜景は、先ほど見た2000年のものよりもさらに洗練され、無機質に輝いていた。

「……博士。あれは、手術というより、暗闇の中での『手探りの殺戮』です。境界が、どこにもない。敵がどこまで続いているのか、最後まで確信が持てないまま、彼はメスを動かしていた」

黒崎博士は、私のバイタル・データを静かに眺めながら頷いた。

「それが20年前の限界であり、誇りでもあったのだ。彼らはエビデンス(科学的根拠)ではなく、インテュイション(直感)で戦うしかなかった。その『不確かな闘争』の記憶が、今の君たちが使うAIナビゲーション(AIによる手術ガイドシステム)の深層学習の源流になっているのだよ」

私は、自分の右手の震えを抑えるように拳を握り締めた。

大河内教授の指先に残っていた、あの「組織が崩れる感触」が、まだ私の脳の回路に焼き付いて離れない。

「……次は、2025年ですね」

「そうだ。ようやく『光』が導入される時代だ。医師が初めて、脳内の迷宮に置かれた『道標』を手にする。だが、便利さと引き換えに、彼らは別の何かを失い始めることになる……」

博士の言葉に、私は未知の時代への不安を募らせた。

科学が飛躍し、不確実性が消えていくプロセス。それは、人間が人間であるための「聖域」をも、デジタルに書き換えていく過程なのかもしれない。

私は、次なるダイブ、2025年への接続シーケンスを開始した。

視界に、青白いホログラフィック・インターフェース(空中投影された操作パネル)が浮かび上がる。


第3章 完



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