第1章:意識の同期(クオンタム・ダイブ)
窓の外には、雲を貫く軌道エレベーター(宇宙空間と地上を結ぶ巨大な昇降機)の基部が、夕刻の陽光を浴びて白磁のように輝いている。ここは帝都・千代田区。史実においてかつて戦禍に焼かれたはずのこの地は、一度も戦火に晒されることなく、百年の平和と科学の集積を積み重ねてきた。
私、神宮寺は、大日本帝国国立高度医療センター(帝都最高の設備を誇る国立病院)の最深部、第7バイオ研究棟のラウンジで、自らのIDタグ(個人認証用非接触型ICチップ)を弄んでいた。私の身分は、厚生労働事務官(医療行政と技術監督を司る官僚)であり、同時に脳神経外科の次世代技官候補でもある。
「準備はいいか、神宮寺事務官。君がこれから経験するのは、単なる歴史の閲覧ではない」
背後から声をかけたのは、本プロジェクトの主任研究員、黒崎博士だ。彼の背後には、巨大な繭のような形状をしたBMIシミュレーター『クロノス・スカルペル』(脳とコンピュータを直結し、他者の過去の記憶や手技を追体験する装置)が鎮座している。
「はい、博士。クオンタム・ダイブ(量子もつれを利用して過去の神経ログを再構成し、意識を同期させる技術)の安全性については、既に医務局(厚生労働省の内部部局)の承認を得ています」
私は「座席」へと歩み寄った。それは椅子というよりは、神経接続のためのインターフェース・クレイドル(身体と機械を物理的・電気的に繋ぐ基盤)だ。背もたれには、数千本のナノ電極アレイ(脳細胞一つ一つと通信可能な極小の電極群)が、獲物を待つ触手のように蠢いている。
私は深呼吸をし、クレイドルに身を預けた。首筋に冷たい感触が走る。ニューラル・コネクタ(神経接続端子)が私の頸椎に密着し、硬膜外腔(脊髄を包む硬膜の外側の隙間)を通じて脳幹へとアクセスを開始した。
『システム起動。ホメオスタシス(生体恒常性)チェック、オールグリーン。シナプティック・リンク(神経細胞の接合部を模倣した通信状態)、深度4まで安定』
合成音声が脳内に直接響く。視界が急速に色褪せ、代わりに複雑な幾何学模様が躍動し始めた。
「これより、脳外科変遷史の第1段階を開始する。同期対象は、西暦2000年、東都大学医学部附属病院。当時のトップ・サージェン(最高峰の執刀医)の神経ログだ」
博士の声が遠ざかる。2000年。それは、このネオ東京の世界線において、既に光子コンピュータ(光の粒子で演算を行う超高速計算機)が実用化され、リニア中央新幹線(超電導磁石で浮上走行する次世代鉄道)が日本列島を縦断していた時代だ。しかし、それでもなお、脳という聖域に対するアプローチは、2050年の現在から見れば、驚くほどアナログで、肉体的な限界に依存していた。
『デカルト・プログラム(意識と肉体を分離・再統合する制御コード)、実行。ターゲット・イヤー:2000。ダイブ開始』
突如、激しい眩暈が私を襲った。平衡感覚(体の傾きや回転を感じる感覚)が消失し、私の意識は量子分解され、50年前の時間軸へと射出される。
暗闇。
いや、暗闇ではない。それは、深い静寂だった。
まず感じたのは、独特の匂いだ。消毒用イソジン(手術部位を殺菌するためのヨード系消毒液)の鉄臭い香りと、電気メス(高周波電流で組織を切開・凝固する器具)がタンパク質を焼く、微かな焦げ臭さ。そして、重苦しいまでの陽圧換気(手術室の清浄度を保つために空調で圧力を高めること)の音。
私の視界が、ゆっくりと「誰か」の視界と重なり合う。
自分の手を見る。そこにあるのは、白い滅菌手袋(細菌感染を防ぐための使い捨てゴム手袋)を嵌めた、骨太な男の手だった。指先には、2050年の医療現場では失われた、ある種の「緊張」が宿っている。
目の前には、大きく切り開かれた頭蓋骨があった。開頭術(頭蓋骨の一部を切り外して脳を露出させる手術)だ。現代のように低侵襲(体へのダメージを最小限に抑えること)なナノボットが血管から侵入する時代ではない。物理的に「蓋」を開け、生身の脳と対峙する時代。
『同期率85%。プロプリオセプション(自分の体の部位がどこにあるかを感じる深部感覚)を固定します』
脳内にガイドが流れる。私は今、2000年の執刀医、大河内教授の意識と完全に同化していた。
視界の中央にあるのは、巨大なオペレーティング・マイクロスコープ(手術用顕微鏡)の接眼レンズだ。大河内は――いや、私は、そのレンズの中に広がる小宇宙を凝視している。
そこには、拍動するクモ膜(脳を包む3層の膜のうちの中間の膜)の下に、美しいが恐ろしい動脈瘤(血管の一部がコブ状に膨らんだもの)が潜んでいた。一歩間違えれば、クモ膜下出血(動脈瘤が破裂して脳の表面に出血が広がる致死的な疾患)を引き起こし、患者の命を奪う死の時限爆弾だ。
周囲には、若き助手たちの荒い息遣いが聞こえる。モニターには心電図(心臓の電気的な動きを記録するグラフ)の波形と、血圧(血管壁にかかる圧力)の数値が、単調なリズムで刻まれている。
(これが……25年前の「高度」なのか?)
私は自らの(大河内の)指先の感覚に驚愕した。
現代のハプティクス(触覚フィードバック技術)を介した滑らかな操作ではない。そこにあるのは、組織の抵抗、ピンセットを伝わる微かな震え、そして「絶対に失敗できない」という、剥き出しの精神の重圧だ。
大河内は、バイポーラ・コアギュレーター(二本の先端間に電流を流して止血する双極電極)を慎重に操作し、動脈瘤の根元、いわゆるネック(動脈瘤の首にあたる部分)を露出させようとしていた。
「吸引を」
短い、枯れた声。それが自分の口から出たことに、私は一瞬の違和感を覚えたが、すぐにその感覚は術野の熱量に飲み込まれた。
助手がサクション(血液や洗浄液を吸い出す吸引管)を差し出し、術野の視界をクリアにする。顕微鏡の倍率を上げる。網膜に焼き付くのは、脳の深部を走る内頸動脈(脳の大部分に血液を送る太い幹線道路)。その枝に咲いた、不気味な赤い花。
(来るぞ……)
私は、大河内の記憶が予兆する「決定的瞬間」を感じ取った。
このシミュレーターの目的は、単に過去を眺めることではない。当時の医師たちが、不完全な情報と未熟な機材の中で、いかにして「命」という不確定要素を御してきたか。その臨床判断(症状やデータから最適な治療を選択する思考プロセス)の核を、私の神経系に刻み込むことにある。
「クリップを」
私は手を差し出した。看護師が、チタン製の小さな杉田クリップ(日本の技術が生んだ世界標準の脳外科用血管クリップ)を装着した持針器を渡す。
2050年において、血管の修復はバイオポリマー(生体適合性のある高分子化合物)による自動閉塞で行われる。しかし今、私の手にあるのは、たった数グラムの金属片だ。
大河内の右手が、顕微鏡の視野の中で、ミリ単位の精度で動く。
動脈瘤のネックに対し、クリップの刃先がゆっくりと開かれる。
心拍に合わせて揺れる血管。その一瞬の静止を狙う。
(ここだ)
カチリ、という微かな手応えが、手袋越しに神経へと伝わってきた。
オクルージョン(血管の遮断)完了。
膨らんでいたコブから、みるみるうちに圧力が抜け、萎んでいく。
「……血流再開。ドップラー(超音波の周波数変化を利用して血流速度を測る装置)で確認」
術野のテンションが、一気に緩和される。モニターに表示される波形は安定し、破裂の危機は去った。
『フェーズ1、終了。シナプス・インプリント(神経接続による情報の焼き付け)を保存します。意識を一度、中間領域へ引き戻します』
システムの声とともに、2000年の手術室が、モザイク状に崩壊していった。
再び、無重力のような浮遊感。
私はクレイドルの上で、荒い呼吸を整えていた。首筋のコネクタが熱を帯びている。
「どうだった、神宮寺事務官。2000年の世界は」
博士の声が、スピーカー越しに聞こえる。
「……驚きました。あんなに不透明な視界で、あんなに原始的な金属の破片を頼りに、彼らは脳を救っていたんですね。まるで、暗闇の洞窟を、一本の松明だけで歩くような作業だ」
「そうだ。だが、その松明こそが、現在のアルゴリズム(計算や処理を行うための手順)の礎になっている。君が今感じた『指先の抵抗』は、データ化されただけの歴史書では決して学べないものだ」
私は、自分の手がまだ微かに震えているのに気づいた。それは、大河内教授の緊張が、私のニューラル・アーキテクチャ(脳の神経構造)に干渉している証拠だった。
「次は2025年だ。科学の進歩が、医師の『目』を機械の『目』に置き換え始めた時代。デジタル・ツイン(現実の物体を仮想空間に精密に再現する技術)の黎明期へ向かうぞ」
「了解しました。……ダイブ・シーケンス、継続」
私は再び目を閉じた。
ネオ東京の2050年から、25年前の「昨日」へと、意識の針が戻されていく。
次に待つのは、かつて人類が手に入れた「光る魔法の薬」と、モニターの中に構築された「もう一つの脳」の物語だ。
私は深淵へと、再び沈み込んでいった。
第1章 完




