表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5872/5971

現代という幕間  第6章:新しい設計図(リ・ブループリント)



一年という長い一時停止ポーズを経て、僕は再び愛媛大学の城北キャンパスの門を潜った。


瀬戸内海から吹き寄せる五月の風は、一年前の僕を追い詰めたあの熱気とは異なり、驚くほど澄んで感じられた。僕自身の受容器(レセプタ:外部からの刺激を受け取る感覚器官の総称)が、休学期間中のメンテナンス(心身の点検と調整)を経て、適切にフィルタリング(必要な信号だけを抽出し、ノイズを除去する処理)機能を取り戻した証拠かもしれない。


僕はまず、工学部の学務係へと足を運んだ。復学の手続きという、人生のシーケンス(あらかじめ定められた順序に従って実行される一連の処理過程)を再開するための儀式だ。事務机の向こう側に座る担当者は、一年前と同じように無機質で、しかしどこか機能的な手際で書類を処理していく。


「これで、あなたは再び本学の学生として登録されました。残りの在学年限(卒業までに大学に籍を置ける最大の期間)は五年、そして必要であればまだ三年の休学年限(通算で休むことができる猶予期間)が残っています。焦らずに進めてください」


その言葉に含まれる冗長性(システムの一部に障害が発生しても全体の機能を維持できるよう、予備の要素を備えておこうとする性質)が、今の僕には最大の安全率(構造物などの強度が、かかる負荷に対してどれだけの余裕を持っているかを示す数値)として響いた。


かつての僕は、この大学生活を四年間という単一のトランザクション(分割不可能な一連の処理単位)として捉えていた。一箇所でもエラーが発生すれば、システム全体が異常終了(アボート:処理を途中で強制的に打ち切ること)してしまうという強迫観念に駆られていたのだ。しかし、今の僕には「十二年」という広大なスループット(単位時間あたりに処理できる仕事量、あるいはシステムが持つ時間的な処理能力)が見えている。


学務係を出た後、僕はアクセシビリティ支援室(障害や特性に応じた学修支援を調整する専門部署)を訪れた。そこでは、ADHD(注意欠如・多動症)という僕のハードウェア仕様(システムの設計上の特性や制約事項)に基づいた、新しい運用マニュアル(合理的配慮)の策定が行われた。


「レポートの提出期限については、事前に相談があれば分割して受け付けることが可能です。また、PBL(課題解決型学習:チームで特定の課題に取り組む実践的な授業)のような多人数でのタスク管理が必要な場面では、TA(ティーチング・アシスタント:教授の補助を行う大学院生など)による構造化(情報を整理し、優先順位を明確にすること)の補助を依頼することも検討しましょう」


提示された支援案の一つひとつが、僕の脳内で生じていたリソース(時間や集中力などの限られた資源)の競合を解消するための、パッチ(プログラムの不具合を修正するために適用される補助的なデータ)のように感じられた。これは依存ではない。自分という特性を持ったデバイスを、最適(オプティマル:特定の条件下で最も望ましい状態)に駆動させるための、正当な最適化チューニングのプロセスなのだ。


その後、僕は工学部の講義棟へと向かった。一年前、あんなに重苦しく感じたコンクリートの壁が、今はただの堅牢性(システムが外部からの負荷や変動に対して壊れにくい性質)を持った構造体としてそこに立っている。


僕は、かつて挫折した「専門実験」の資料を手に取った。そこには、田口工作所で実際に触れてきたボルトやベアリング、油圧回路の理論が記されていた。今ならわかる。教科書に書かれた数式は、僕が手のひらで感じたあの金属の温度や、トルクレンチ(締め付け力を測定しながらボルトを回す工具)の抵抗感と、完全に同期(シンクロ:複数の事象が同じタイミングで動作するように調整されること)しているのだ。


抽象的な論理と、具体的な実体。その二つの回路が、休学という「絶縁(電気や熱の伝わりを遮断すること)」の期間を経て、僕の中で一つのシステムとして収束(カスケード:複数の処理が最終的に一つの安定した解へと辿り着くこと)し始めていた。


僕は、キャンパスのベンチに座り、これからの数年間のライフサイクル(製品やシステムが誕生してから廃棄されるまでの全過程。転じて、学生生活の全体像)を描き直してみた。


三回生の専門科目を二年に分けて履修し、十分に余裕を持った状態で卒業研究へと繋げる。もし途中で再び適応障害(特定の環境下でのストレスにより心身のバランスを崩す状態)の兆候が現れたら、迷わずリトライ(失敗した処理を、条件を整えてから再び実行すること)の権利を行使して休む。ストレートな卒業という「定格(あらかじめ定められた標準的な動作条件)」に縛られる必要はない。


佐伯さんが言っていたフィールドエンジニア(現場に赴いて設備の設置や修理を行う技術者)という進路も、今は一つの有力なキャリアパス(職業人生における経験や技能の積み上げの道筋)として僕の視野に入っている。大学卒業という学位アカデミック・ディグリーを得ることは重要だが、それが僕という人間を定義する唯一のパラメータ(システムの状態を決定する変数)ではないという気づきが、何よりも僕を自由にしていた。


夕暮れ時、城北キャンパスの時計塔が長い影を落とす。僕は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。


僕の人生という設計図ブループリントは、一度は大きく破綻しかけた。しかし、そのエラー箇所を丹念にデバッグ(不具合を見つけ出し、修正する作業)し、十二年という広大な時間軸を冗長化(予備の時間を確保して、トラブルに備えること)したことで、以前よりもずっと堅実で、かつしなやかなものに書き換えられた。


ADHDという特性は、消えることはない。それは僕というハードウェアの固有の仕様スペックだ。不注意によるパルス(突発的なノイズや信号の変化)は時折発生するし、過集中によるオーバーヒート(過熱による機能停止)の危険も常に孕んでいる。だが、今の僕は、その特性をどう制御コントロールし、どの環境に接続すれば最高の結果を出せるかを知っている。


僕は、工学部の建物を見上げた。


「さあ、始めようか」


独り言は、瀬戸内海の風に溶けて消えた。それは再開の宣言であり、自分自身への新しいコミットメント(責任を持って物事に関わるという決意表明)でもあった。


僕の目の前には、まだ何百枚ものレポートと、何千時間もの学修の時間が広がっている。でも、もう怖くはない。僕の手の中には、休学という静域サイレンスで研ぎ澄まされた新しい感覚と、十二年という長い時間を味方につけた、僕だけの新しい設計図があるのだから。


工学とは、不完全な現実の中に、可能な限り完全なシステムを構築しようとする試みだ。僕の人生もまた、その途上にある。何度でも立ち止まり、何度でもデバッグを繰り返し、少しずつ、しかし確実に、僕は僕という人間を完成コンプリートさせていく。


松山の街に灯りが灯り始める。僕というノード(ネットワークを構成する一つの接続点)は、今、再び確かな意志を持って、世界という巨大なグリッド(網目状に構成された電力や情報の供給網)へと接続ログインした。


『エンジニアリング・ポーズ』・完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ