現代という幕間 第5章:分岐する回路(マルチ・キャリア・パス)
松山の夏が去り、重たかった湿気が瀬戸内海の乾いた風に押し流され始めた頃、僕の「一時停止」の日常に、一つの新しい信号が入力された。
それは、田口工作所に時折顔を出す、佐伯さんという三十代半ばの男性との出会いだった。彼は市内のプラントメンテナンス(工場の製造設備や社会インフラを維持・点検・修理する業務)を請け負う会社で、リードエンジニア(技術チームの指揮を執り、設計から現場対応までを統括する責任者)を務めている人物だった。
ある日、佐伯さんは特殊な形状のジグ(治具:工作物を固定し、加工の案内をするための補助工具)の製作を田口さんに依頼しにやってきた。その時、傍らで古い旋盤を磨いていた僕の作業を見て、彼は不意に声をかけてきた。
「君、手つきがいいな。愛大(愛媛大学)の工学部の子か?」
僕は作業を止め、微かな緊張とともに頷いた。現在は休学中であることも、短く付け加えた。すると佐伯さんは、驚いた風でもなく、自嘲気味な笑みを浮かべて隣の椅子に腰掛けた。
「実はな、俺もあそこの中退者なんだよ。機械工学の四回生で、卒業研究(大学生活の集大成として特定のテーマを研究し、論文にまとめる科目)の途中で、どうしても回路が焼き切れてしまってね」
その言葉は、僕にとって予期せぬ外部割り込み(プログラムの実行中に緊急の事象が発生し、現在の処理を中断して別の処理を行うこと)だった。僕の目には、現場で的確な指示を出す「完成されたプロフェッショナル」に見えていた彼が、自分と同じドロップアウト(中退や除籍など、予定されたコースから離脱すること)の経験者であるという事実に、脳内の論理回路が一時的にフリーズした。
佐伯さんは、僕が経験したのと酷似した「適応障害(特定の環境下で過剰なストレスを感じ、心身のバランスを崩す状態)」のプロセスを淡々と語った。膨大なレポート、集団での歩調合わせ、そして「将来」という実体のない巨大な変数(プログラム内で値を保持するための箱だが、その中身が不確定であること)への不安。
「大学というシステムは、汎用機(あらゆる用途に対応できるよう設計された大型コンピュータ)を育てるための場所だ。でも、俺たちの脳は、特定の周波数にしか反応しない単機能の専用機(特定の用途に特化して性能を極限まで高めたハードウェア)だったんだよ。汎用OS(オペレーティングシステム:コンピュータ全体を管理する基本ソフト)を無理やりインストールしようとして、カーネルパニック(システムの核となる部分で修復不能なエラーが発生し、動作が停止すること)を起こしただけなんだ」
彼の比喩は、僕の現状を驚くほど正確に記述していた。佐伯さんは大学を去った後、数年の空白期間を経て、現在のフィールドエンジニア(顧客の現場に赴き、設備の設置や修理、メンテナンスを直接行う技術者)という職種に辿り着いたという。
「フィールドの仕事はいいぞ。毎日違う場所に行き、目の前の壊れた機械を直す。そこには長い会議も、曖昧な人間関係の調整もない。あるのは原因と結果だけだ。ADHD(注意欠如・多動症)の特性である『突発的な事態への瞬発力』や『対象への異常な没入』が、現場ではそのまま強み(アセット)になる」
佐伯さんの話を聞きながら、僕の脳内では新しいキャリアパス(職業人生における経験や技能の積み上げの道筋)のシミュレーション(仮想的な環境で動作を予測・解析すること)が走り始めた。
これまで僕は、大学卒業という「唯一の出口」を目指し、そこから外れることをシステムの全損(トータルロス:修理不可能なほど完全に破壊されること)だと信じ込んでいた。しかし、佐伯さんという実例は、人生の回路が一度分岐(ブランチ:プログラムの流れが特定の条件によって枝分かれすること)したとしても、その先で別の安定した動作モード(システムが特定の目的のために稼働する状態)を見つけられることを示していた。
「もちろん、大学を卒業した方が選択肢は広い。それは否定しない。でも、もしどうしても戻れないなら、自分の特性をリフレーミング(物事の枠組みを変えて、別の視点から意味づけし直すこと)してみることだ。不注意は『広い視野での探索』になり得るし、こだわりは『徹底的な品質管理』に化ける」
佐伯さんは、完成したばかりのジグを手に取り、満足そうに頷いて工場を後にした。
その夜、僕は自分の部屋で、これまでの学修記録と、田口工作所で培った技術的な手応えを対照(コンペア:二つのデータを並べて比較し、差異を確認すること)してみた。
大学という静的な(スタティックな:状態が変化せず一定であること)環境下での座学は、僕の脳にとってインピーダンス(交流回路における電流の通りにくさを表す数値)が非常に高く、エネルギー伝達効率が最悪だった。しかし、動的な(ダイナミックな:常に変化し、動きがあること)現場、つまり「五感でエラーを検知し、即座に修正を施す」というプロセスにおいて、僕の脳は驚くほどクリアに同期(シンクロ:複数のシステムが同じタイミングで動作するように調整されること)していた。
これは、僕というデバイスの仕様(仕様:装置や部品が満たすべき性能や機能の詳細)が、単に環境とのミスマッチを起こしていたことを裏付けていた。
僕は、大学に籍を置いたまま、残された五年の在学年限と四年の休学年限という広大なバッファ・ゾーン(余裕領域)をどう活用すべきか、再定義(リデフィニション:既存の概念や変数の意味を定義し直すこと)を始めた。
今すぐ復学して、再び同じエラーを繰り返すのは愚策(非効率なアルゴリズム)だ。ならば、この休学期間中に、佐伯さんが言った「自分の特性の活かし方」を実地で検証する期間を設けてはどうだろうか。
例えば、より専門的な技術を学べる民間のトレーニングセンターに通うこと、あるいは短期のインターンシップ(学生が企業で就業体験を行う制度)を通じて、フィールドエンジニアの実態を自分の目で確かめること。
大学というシステムの「外部」に出たことで、皮肉なことに、僕の工学的な思考はより自由で、かつ実践的なものへと進化しつつあった。
「卒業」は目的関数(最適化問題において、最大化または最小化したい対象となる関数)の唯一の解ではない。僕にとっての真の目的は、自分という壊れやすい制御系を、社会という巨大でノイズの多い環境の中で、いかに安定して稼働させ続けるかにある。
僕は、かつて自分を縛り付けていた「平均的な学生」というモデル(現実の世界を抽象化して表現した数理的・論理的な雛形)を、脳内のゴミ箱へとドラッグした。
第5章・完




