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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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現代という幕間 第4章:機械の呼吸(メカニカル・レゾナンス)



休学届を提出してから三ヶ月が経過した。


松山の夏は、重たく湿った熱気に包まれていた。実家の自室で、僕はただ静止したシステムのように時間を過ごしていたが、次第に脳内の「情報の飢餓」が始まりつつあった。ADHD(注意欠如・多動症)という特性は、過剰な刺激には弱いが、全く刺激のない真空状態にも耐えられないという矛盾を抱えている。


そんな折、僕は散歩の途中で、近所の路地の奥にある小さな町工場に目が留まった。そこは「田口工作所」という古びた看板を掲げた、職一人の小さな作業場だった。開け放たれた入り口からは、切削油(せっ削加工時に刃物の冷却や潤滑のために用いられる油)特有の甘く重い匂いと、金属を削る規則的なリズムが漏れ聞こえていた。


「……何か用か、坊主」


油の染み込んだ作業服を着た老主人が、旋盤(せんばん:被削物を回転させ、バイトと呼ばれる刃物を当てて削る工作機械)の手を止めて僕を見た。僕は反射的に、自分が愛媛大学の工学部で学んでいること、そして今は休学中であることを、たどたどしく伝えた。


それがきっかけだった。僕は週に数回、その工場の片隅で、使われなくなった古い工作機械のメンテナンス(設備の点検、修理を行い、正常な状態を維持すること)を手伝うことになった。


大学の講義室で耳にする「理論」は、僕にとって空中に浮遊する抽象的な符号の群れでしかなかった。しかし、この薄暗い作業場で触れる「機械」は、圧倒的な実体サブスタンスとして僕の前に存在していた。


僕が最初に任されたのは、二十年以上前に製造されたという手動式のフライス盤(回転する刃物で金属を削り、平面や溝を作る機械)のオーバーホール(機械を部品単位まで分解し、清掃・修理して再び組み立てる作業)だった。


長年の放置により、摺動面(しゅうどうめん:部品同士がこすれ合いながら動く面)は古いグリスが固着し、錆(酸化反応によって金属表面に生じる腐食)が進行していた。僕はまず、溶剤を染み込ませたウエス(作業用の布)で、それらの堆積した時間を拭き取ることから始めた。


この作業は、僕の脳に奇妙な平穏をもたらした。


大学での学修において僕を苦しめたのは、情報の曖昧さと、同時並行で進むタスクの氾濫だった。しかし、目の前の機械は嘘をつかない。ボルトを一本外せば、それに関連する部品が一つ外れる。そこには明確な因果律(原因があれば必ず結果が生じるという法則)と、堅牢な論理的構造が存在していた。


僕は、錆びついたボルトを緩めるために、トルクレンチ(ボルトを規定の力で締め付けるための計測機能付き工具)を手にした。


「いいか、力任せに回すんじゃない。ボルトの呼吸を読め」


田口さんの言葉に従い、僕はゆっくりと力を込めていく。ある一点で、金属同士が噛み合う摩擦抵抗を通り越し、ボルトが「カクン」という感触とともに解放される。その瞬間のフィードバック(出力の結果を感覚として受け取り、次の動作に反映させること)は、僕の指先を通じて、直接的に報酬系(快感や満足感に関わる脳内の神経系)を刺激した。


作業手順書マニュアルを傍らに置き、一つひとつの工程をチェックリストで埋めていく。これは、僕の脳の外部メモリとして機能した。ADHDの欠点である「不注意」や「手順の飛び越し」は、この物理的な確認作業によって無効化キャンセルされる。


「次はベアリング(軸受:回転する軸を支え、摩擦を減らす部品)の交換だ」


新品のベアリングを軸に打ち込む際、僕はその微かな音の変化に全神経を集中させた。過集中(特定の対象に深く没頭し、周囲の状況を忘れるほど集中する性質)という、かつては僕を追い詰めた特性が、ここでは強力な武器へと転換された。金属が密着していく音、微かな振動の減衰(しんどうのげんすい:時間の経過とともに振動が小さくなっていくこと)。


その物理的な実感フィジカル・センセーションに浸っている間、僕を苛んでいた将来への不安や、適応障害の重苦しい影は、背景のノイズ(不要な信号)へと退いていた。


ある日、整備を終えたフライス盤の電源を入れた。


モーターが回転を始め、駆動ベルトが空気を切る音が響く。かつては耳障りに感じた機械音メカニカル・ノイズが、今は完璧に調整されたオーケストラのように聞こえた。各部が干渉することなく、設計通りの軌道で動いている。その再現性(同じ条件であれば必ず同じ結果が得られるという性質)こそが、僕が工学に求めていた救いだったのかもしれない。


「いい筋をしてるな。大学の教科書じゃ、油の匂いは分からんだろう」


田口さんは、僕が磨き上げた機械のテーブルを撫でながら、不器用に笑った。


その一言が、粉々に砕け散っていた僕の自己効力感(自分が目標を達成できる、あるいは社会に貢献できるという確信)の破片を、少しだけ拾い集めてくれたような気がした。


大学という巨大な組織、そしてPBL(課題解決型学習)という高度な社会的相互作用を求められる環境では、僕は「故障品デフレクト」だった。しかし、この数ミリの精度が求められる機械の世界において、僕の過度なまでのこだわりや、細部への注力は、むしろ正常な仕様スペックとして受け入れられた。


僕は気づいた。僕というシステムが壊れていたのではない。ただ、僕を駆動させるためのパラメータ(システムの特性を決定する媒介変数)が、大学という環境のデフォルト設定(初期設定)と致命的に異なっていただけなのだ。


機械をメンテナンスする作業は、同時に、僕自身の内面をメンテナンスする作業でもあった。


不規則だった生活リズムは、田口工作所の始業時間に合わせて、定時性(規則正しく決まった時間に行動すること)を取り戻していった。太陽の光を浴び、重い工具を使い、金属の冷たさに触れる。その一つひとつの入力が、僕の神経発達的な脆弱性(脳の神経的なバランスが不安定で、ストレス耐性が低い状態)を、ゆっくりと補強リインフォースしていく。


松山の夏が終わりに近づく頃、僕は再び自分の部屋に戻り、かつて投げ出した教科書を手に取った。


「材料力学」のページを開く。そこにある応力(材料の内部に生じる力)の計算式が、今度はただの数式ではなく、僕がトルクレンチで感じた、あの手のひらの重みとして脳内に立ち上がってきた。


抽象的な論理と、具体的な実在。その二つの回路が、ようやく僕の中でインピーダンス・マッチング(信号源と負荷の抵抗値を合わせ、エネルギー伝達効率を最大化すること)を始めようとしていた。


僕はまだ、復学するかどうかの結論は出していなかった。だが、少なくとも「立ち止まること」への恐怖は消えていた。僕にはまだ、八年という在籍枠と、四年の休学枠がある。この十二年という広大なバッファ・ゾーン(余裕領域)の中で、僕は自分という機械を、最も美しく、最も効率的に動かすための「独自の整備マニュアル」を書き上げればいいのだ。


工場の窓から見える夕暮れは、かつてのような絶望の色を帯びてはいなかった。それは、これから始まる長いデバッグ(不具合を修正し、正常に動作させるプロセス)の時間を、穏やかに肯定してくれているように見えた。


第4章・完

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