現代という幕間 第2章:壊れた制御系(フィードバック・ループの破綻)
僕の自室は、今や僕自身の精神状態を鏡のように映し出すブラックボックス(内部構造は不明だが、入力と出力の関係だけが観測できる装置やシステムのこと)と化していた。
机の上には、愛媛大学工学部の三回生に課される膨大な学術的負債が積み上がっている。構造力学の演習、電磁気学のレポート、そして挫折したPBL(課題解決型学習:チームで特定の課題に取り組む実践的な授業)の資料。それらは物理的な質量を持って僕を圧迫し、部屋の酸素濃度さえも低くしているような錯覚を抱かせた。本来、エンジニアを目指す者にとって、情報は整理され、構造化(バラバラなデータを関連付けて体系立てること)されているべきものだ。しかし、僕の視界にあるのは、エントロピー(系の乱雑さや無秩序さを表す物理量)が極大に達した、無意味な紙の集積でしかなかった。
僕はパソコンの前に座り、構造解析ソフトの画面を眺める。本来なら、トラス構造(三角形を基本単位として組み合わされた骨組み構造)に加わる荷重のシミュレーションを実行しなければならない。しかし、僕の指先は動かない。脳内の実行機能(目標達成のために思考や行動を制御し、管理する高度な脳機能)が、深刻なデッドロック(複数の処理が互いの終了を待ち合い、全体が停止してしまう状態)を起こしていた。
ADHD(注意欠如・多動症)特有の「先延ばし」という現象は、決して怠慢から来るものではない。それは、脳内における優先順位付けのアルゴリズム(問題を解決するための計算手順や処理の形式)が故障し、すべてのタスクが「最大優先度」で同時に割り込んでくるために生じるシステムフリーズだ。レポートを書かなければならない。しかし、ペン立ての中にある一本のネジの錆が気になる。その錆の酸化還元反応(物質間で電子のやり取りが行われる化学反応)について調べたくなり、気づけば一時間が経過している。この「興味の脱線」による時間的損失が、さらに僕を追い詰め、自己嫌悪という名の正のフィードバック(出力の一部を入力に戻し、元の変化をさらに増幅させる仕組み)を加速させていく。
ある火曜日の朝、僕はベッドから起き上がることができなかった。
カーテンの隙間から差し込む松山市の陽光が、刺すような痛みとして脳に届く。感覚過敏(周囲の音や光、触感などを過剰に鋭敏に感じてしまう状態)が始まっていた。階下を走る車のエンジン音、冷蔵庫のコンプレッサー(冷媒を圧縮して循環させるための回転機)が発する微かな振動、それらすべてのノイズ(必要な信号を阻害する不要な入力)が、増幅器を通したかのような音量で僕の神経を叩く。
「行かなければならない」
頭では理解している。しかし、大脳辺縁系(感情や本能を司る脳の部位)が激しい拒絶反応を示していた。大学という空間、あの工学部の無機質な廊下、そして僕の欠陥を露呈させるであろう講義室。それらを想像するだけで、心拍数は上昇し、呼吸は浅くなる。これはもはや、気力の問題ではなかった。僕というシステムの安全装置が作動し、これ以上の過負荷を避けるために全機能を強制停止させているのだ。
この連鎖的故障(カスケード・ハザード:一つの要素の故障が引き金となり、次々と他の要素も故障していく現象)を止める術を、当時の僕は持っていなかった。
数日間の欠席を経て、僕は重い足取りで大学の保健管理センターの門を叩いた。そこはキャンパスの喧騒から少し離れた、静かな場所だった。カウンセリングルームの白い壁と、微かに漂う消毒液の匂いが、過熱した僕の脳を少しだけ冷却してくれるように感じた。
担当した医師は、僕の工学的な語り口を否定することなく、静かに耳を傾けてくれた。僕は、自分の脳内で起きている「制御系の破綻」を、できるだけ客観的なパラメータ(システムの特性を決定する媒介変数)として伝えた。ワーキングメモリ(情報を一時的に保持し、操作するための脳内の作業領域)の不足、注意力の散漫によるS/N比(信号とノイズの比率。これが高いほど必要な情報がクリアに伝わる)の低下、そして環境への不適合。
「君の苦しみには、名前があります」
医師は落ち着いた声で言った。
「適応障害(特定の環境下でのストレスにより、日常生活に支障をきたすほど心身のバランスを崩した状態)です。ADHDという神経発達的な特性が、現在の大学生活という『環境の仕様』と激しく衝突している。その摩擦熱で、君の心が焼き付いてしまった状態だと言えるでしょう」
その診断名は、僕にとって敗北の記録ではなく、一種の仕様書(システムの機能や性能を詳細に記した設計図)のように感じられた。僕が動けないのは、僕の人間性が欠如しているからではない。僕というデバイスを、適合しない電圧(環境の要求)で駆動させようとした結果生じた、物理的な故障なのだ。
「今の君に必要なのは、修理ではなく、一度電源を落とすこと。つまり、システムのリブート(再起動)です」
医師の言葉は、論理的だった。しかし、工学部の三回生という「製造ライン」から外れることへの恐怖は、依然として僕の中に残っていた。留年(進級できずに同じ年次に留まること)すれば、同期たちから遅れをとる。それはエンジニアとしてのキャリアにおける致命的な欠陥になるのではないか。
帰り道、僕は工学部の講義棟の横を通った。窓からは、実験に没頭する学生たちの影が見える。彼らは正常なデューティ比(周期的な現象において、実行状態にある時間の割合)で活動を続けている。一方で僕は、バックライトの切れたディスプレイのように、暗闇の中に沈んでいた。
僕の脳内で、一つの思考実験が繰り返される。もし、このまま無理をして稼働を続ければどうなるか。答えは明白だった。完全に回路が焼き切れ、二度と立ち上がれなくなる全損(トータルロス:修理不可能なほど徹底的に破壊されること)の状態だ。それだけは、エンジニアとして、あるいは一人の人間として、避けなければならない最悪のシナリオだった。
アパートに戻った僕は、暗い部屋で一人、自分の「人生という名のシステム」の再設計図を引き始めた。現在の入力値は過剰で、出力は不安定。ならば、まずは入力を遮断し、内部の電圧を安定させる期間が必要だ。
僕は、これまで忌避していた「休学(学籍を保持したまま、一定期間授業を休むこと)」という選択肢を、現実的な解決策としてテーブルの上に載せた。それは逃避ではなく、次に進むための戦略的な一時停止なのだと、自分に言い聞かせた。
僕の指が、スマートフォンの画面上で事務局の連絡先を探し当てる。心臓の鼓動は依然として速かったが、その波形は、先ほどまでの乱数的なノイズではなく、明確な意思を持ったパルス(一定の目的を持って発信される信号)へと変わりつつあった。
制御不能に陥った僕の二十代は、ここで一度、明示的に中断される。それが、僕という壊れた制御系を修復するための、唯一のデバッグ(プログラムなどの間違いを見つけ出し、修正する作業)の始まりだった。
第2章・完




