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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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現代という幕間 第1章:位相の不一致(フェーズ・ミスマッチ)



工学部三回生というフェーズ(特定の段階や局面のこと)に入った瞬間、世界の解像度が暴力的なまでに高まったように感じた。それまでの二年間、共通教育という名の緩やかな助走期間を終え、僕たちは突如として、専門科目という名の高密度な情報体に放り込まれたのだ。愛媛大学のキャンパスを吹き抜ける五月の風はまだ心地よかったが、講義棟の中に充満する空気は、電子回路の焦げる匂いと、目に見えない論理の重圧に満ちていた。


僕の脳内では、常に情報のエントロピー(系における無秩序さや不確実性の度合いを示す指標)が増大し続けていた。ADHD(注意欠如・多動症)という特性を持つ僕にとって、大学生活という自由な空間は、本来、最も制御が困難なシステムの一つだった。高校までの、チャイムによって厳格に分断された時間という枠組みを失った時、僕のセルフマネジメント(自らの行動や感情を自律的に制御すること)機能は、設計ミスを隠したまま稼働を続けるプラントのように、静かに破綻への道を歩み始めていた。


三回生の春、最も僕を追い詰めたのは「学部共通PBL(課題解決型学習:チームで特定の課題に取り組む実践的な授業)」だった。数人の学生がチームを組み、特定の技術的課題に対して数ヶ月かけて解を導き出す。そこでは、純粋な技術力以上に、高度なコミュニケーションと、緻密なスケジュール管理、そして何よりも「役割の分担」が求められた。


「じゃあ、君は回路図の作成とパーツの発注リスト作成をお願いしていいかな」


リーダー格の学生が、爽やかな、しかし僕にとっては断罪に近い響きを持ってそう告げた。僕は頷く。それしか選択肢がなかったからだ。しかし、僕のワーキングメモリ(情報を一時的に保持しながら操作するための脳内の作業領域)は、その瞬間にパンクしていた。回路図の仕様(設計に際して満たすべき機能や条件を詳細に記したもの)を理解することと、発注期限をカレンダーに刻み込むこと、そしてチームメンバーとの歩調を合わせること。それら複数のタスクが、整理されないまま僕の脳内に積み重なっていく。


僕の思考は、しばしば過集中(特定の対象に対して、周囲の状況を忘れるほど過度に没頭する性質)という落とし穴に嵌まる。回路図の一箇所、例えば電源回路の平滑化(交流を直流に変換する際に出る電圧の変動を抑えて滑らかにすること)に用いるコンデンサの容量計算に没頭し始めると、他のすべてが背景へと退いてしまう。その計算自体は、僕にとってはこの上なく美しい論理の構築作業だった。しかし、その背後で刻一刻と迫る全体進捗のデッドライン(最終的な提出期限や締め切り)は、僕の意識の外側へと追いやられていた。


「どうなった? リスト、まだできてないの?」


数日後のミーティングで、同じ質問を投げかけられた時、僕は声が出なかった。僕の脳内には、完璧に計算された電源回路のデータがある。しかし、発注リストという、社会的な手続きを伴う文書は、一文字も書き進められていなかった。周囲の学生たちの視線が、微かな困惑から、やがて冷ややかな沈黙へと変わっていく。彼らにとって、優先順位(物事の重要性や緊急性に応じて着手すべき順番)を決定することは、呼吸をするのと同じくらい自然な、無意識のプロセスなのだろう。


しかし、僕にとっては、すべての情報は等価だった。コンデンサの容量計算も、部品メーカーの在庫確認も、チームメイトとの雑談も、すべてが同じ音量で僕の脳に流れ込んでくる。そこから特定の信号を抽出する「選択的注意(複数の情報の中から、特定の対象にのみ意識を向ける能力)」が、僕の脳という回路の中では、常に接触不良を起こしていた。


その日の講義が終わった後、僕は一人、城北キャンパスの裏手にある古いベンチに座っていた。夕暮れ時の松山の街並みが、少しずつオレンジ色のノイズに溶けていく。僕の心身には、形容しがたい疲弊が蓄積していた。それは肉体的な疲れではなく、常にフル回転を強いられながらも空回りし続ける、ニューロン(脳を構成する神経細胞)の過熱による摩耗だった。


適応障害(特定の生活環境に適応できず、心身に苦痛や生活の支障が生じる状態)の兆候は、まず睡眠に現れた。夜、目を閉じても、昼間の回路図や、チームメイトの視線、教授の投げかけた問いが、ランダムなパルス(極めて短い時間に発生する電流や信号の波)のように脳裏に明滅する。脳が「オフ」の状態に移行できず、常にアイドリング(エンジンをかけたまま、動力伝達を遮断して待機する状態)を続けているような感覚。朝、目覚めた瞬間に感じるのは、希望ではなく、これから始まる「ミスマッチな一日」への絶望だった。


大学へ行くために自転車を漕ぐ足が、日に日に重くなっていく。工学部の建物が見えるたびに、動悸(心臓の鼓動が激しくなる自覚症状)が激しくなり、胃のあたりが焼けつくように痛む。それは、僕の身体が発している、最後のアラート(異常を知らせる警告信号)だった。


「自分は、このシステムの一部になれないのではないか」


その疑念は、一度芽生えると、回路を流れるリーク電流(絶縁されているはずの場所から漏れ出す微弱な電流)のように、僕の精神をじわじわと蝕んでいった。周囲の学生たちが、まるで同期(シンクロナイズ:複数のシステムが同じタイミングで動作するように調整すること)されたクロック信号に合わせて整然と歩んでいるように見える一方で、僕一人だけが、異なる周波数(単位時間あたりに繰り返される振動の回数)で震えているような疎外感。


工学という学問は、本来、予測可能性(入力に対して期待通りの出力が得られるという確信)を追求するものだ。しかし、僕自身の人生というシステムは、現在、完全な「制御不能(コントロール不能)」の状態に陥っていた。フィードバック制御(出力の結果を再び入力側に戻し、目標値に近づけるように調整する仕組み)が働かず、エラーは増大し続け、系は発散に向かっている。


僕は、自分が壊れかけていることを理解していた。しかし、工学部という「合理性の牙城」において、心が折れるという事象をどう定義し、誰に報告すればいいのか、その手順書マニュアルはどこにも存在しなかった。ただ一つ確かなのは、僕と大学という二つの振動体の間には、致命的な位相の不一致(フェーズ・ミスマッチ:二つの波形のタイミングが合わず、互いに打ち消し合ったり乱れたりする現象)が生じているという事実だけだった。


夕闇が完全に街を包み込む頃、僕は立ち上がった。足元はふらついていたが、頭の中では冷徹な、しかしどこか救いようのない結論が導き出されていた。このまま稼働を続ければ、僕というシステムは回復不能な全損(トータルロス:修理不可能なほど完全に破壊されること)に至る。


その夜、僕は初めて「休学」という言葉を、スマートフォンの検索窓に入力した。画面から放たれる青白い光が、暗い部屋の中で僕の絶望と、ほんのわずかな、あまりにも微かな希望を照らし出していた。それは、僕というエンジニアが、自分自身の人生という巨大な設計図を、初めて客観的な視点で見つめ直そうとした瞬間でもあった。


第1章・完

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