無くてもいい幕間 第5章:愛の抹消(デリート)、あるいは電子の咆哮
白磁の静寂に守られていたはずの「箱庭」は、今や猛毒の光を放つ檻へと変質していた。
寝台の上に投げ出された端末が、心臓の不整脈に同期して震える。
網膜に直接突き刺さる、無数の通知。
『好きだよ』『今どこ?』『君が必要だ』。
どれもが洗練されたフォントで飾られ、送る側の「善意」という名の自己満足をコーティングした、ただの電子の残滓。
「……五月蝿い。壊れてよ、全部」
私は震える指先で、浮遊するダイヤモンド状のパネルを薙ぎ払った。
視界を埋め尽くす幾何学的な「愛」が、不快なノイズを撒き散らしてゴミ箱の底へと沈んでいく。
この街において、言葉はもはや意思を伝える道具ではない。
空虚な自己を埋めるための充填剤であり、誰かと繋がっているという「錯覚」を維持するための安価な延命措置だ。
『愛してる』という文字列がディスプレイの上を滑るたび、私の内側にある「本物」が、酸を浴びせられたように溶けていく感覚。
「二文字以内でいいって、言ったのに」
喉の奥から絞り出すような独白が、白い壁に跳ね返る。
私が欲しているのは、そんな記号化された甘言ではない。
「殺せ」あるいは「抱け」。
逃げ場のない、装飾を削ぎ落とした究極の二進法。
けれど、この無機質な都市が差し出してくるのは、いつだって「適度な距離感」と「平均化された優しさ」という名の、吐き気を催すような既製品の雨だけだ。
不意に、視界の隅でダイヤモンド形のフレームがひび割れた。
エラー。システムエラー。
私の拒絶反応が、網膜投影の限界を超えて世界を歪ませていく。
積み重なった「灰色の羽」が、電子の火花を散らして黒く焦げ始めた。
「……あ。ああああ……っ!」
私は自分の胸を、薄汚れた白い服の上から強くかきむしった。
爪が皮膚に食い込み、微かな血の温もりが指先に伝わる。
その痛みだけが、情報の濁流に飲み込まれそうな私の実存を、この座標に繋ぎ止める唯一の錨。
自分を幾何学的なパーツに分解して、このまま霧散させてしまいたい。
けれど、そう願えば願うほど、心臓は卑しくも力強い拍動を繰り返し、私がまだ「未熟な生命」であることを残酷に突きつけてくる。
「嘘つき……みんな、嘘つきだわ!」
私は、声にならない咆哮を上げた。
防音壁に囲まれたこの「白い箱」の中で、私の叫びはどこにも届かず、ただ内圧を高めていく。
視界の中で、かつて私を惹きつけたはずの「緋色の色彩」が、ノイズと共に崩壊していく。
愛して、なんて言わないで。
分かっているなんて、顔をしないで。
あなたのその「低解像度な共感」で、私の渇きを汚さないで。
画面の中に溢れる『愛』の文字列を、一つ、また一つと、執拗にドラッグ&ドロップで葬り去る。
削除の度に、脳髄を走る電気信号。
それは、偽物たちとの繋がりを絶ち切るたびに味わう、至高の孤独という名の快楽。
ふと、自分の指先を見る。
血が滲み、震えている。
その不格好で、美しくも何ともない「生々しさ」。
それこそが、どんな高精度なホログラムも再現できない、私だけの「真実」だった。
「……もっと。もっと、痛くしてよ」
私は、ベッドの上に散らばった灰色の羽を握りつぶした。
電子の咆哮は、やがて静かな喘鳴へと変わっていく。
世界は断片化され、私はその欠片の中で、一人、自らの爪跡を確認する。
夜明けが近い。
システムの再起動が始まれば、この狂おしい情動も、また「一時的なエラー」として処理されてしまうだろう。
けれど、私は忘れない。
この白い檻の中で、確かに自分が「餓えた獣」のように叫んでいたことを。
私は、床に転がった「緋色の雨合羽」を、泥だらけのまま引き寄せた。
再びその「拒絶の皮膚」を纏う時、私は、昨日よりもずっと深い渇きを抱いて、あの雨の街へと戻っていけるはずだ。
(第5章・了)




