無くてもいい幕間 第4章:緋の傘と、拒絶される救済
情報の不感地帯から這い出た私を待っていたのは、更なる彩度の剥落した灰色の世界だった。
ネオ東京の街角は、液状化した静電気――天からの灑水によって、輪郭を失いかけている。
高層建築の隙間から吹き抜ける風は、都市の廃熱を奪い去り、私の皮膚を硬質な冷気で研ぎ澄ませた。
「……どこまでも、不純」
私は再び、あの鮮烈な「赤の雨合羽」を羽織り、雑踏の片隅に佇んでいた。
足元を流れる汚濁した水溜りには、ダイヤモンド形のホログラム広告が歪に反射し、私の実存を粉々に粉砕しようとする。
「――そんなに自分を、痛めつけて楽しいのかい?」
不意に、頭上を叩く滴の衝撃が途絶えた。
代わりに視界を覆ったのは、私の纏う「赤」と同質の、けれどどこか人工的で完璧すぎる色彩。
「緋色の傘」だった。
隣に立っていたのは、一点の曇りもない『適合者』の証を纏った少年だ。
彼の差し出した傘は、雨を遮るための道具というより、外界との繋がりを断絶するための「温室」のように見えた。
「見ていられないよ。ずぶ濡れで、震えて。……この中へおいで。ここは、君が思うよりずっと静かだ」
少年の声音は、精密に調律された弦楽器のように心地よい。
彼は、私がこの赤色の皮膜の下に隠している、剥き出しの絶望など一顧だにしない。
ただ、この都市が推奨する「適切な保護」という名のテンプレートを、慈愛の貌で押し付けてくる。
「……静かなのは、あなたの耳が、世界の悲鳴を拒絶しているからでしょう?」
「悲鳴? 聞こえるのは、ただの降雨音だよ。それをどう解釈するかは、システムが最適化してくれる。……ほら、手を取りなよ。僕なら、君を『正解』の場所へ連れて行ける」
少年の掌が、私の赤い袖に触れようとする。
その指先には、生身の人間特有の「迷い」が一切存在しなかった。
彼が差し出したのは、救済という名の甘い麻酔(飴)。
もしこの緋色の檻に身を委ねてしまえば、私の抱えるこの渇きも、肺を焼く苛立ちも、すべては「一過性のエラー」として処理され、消去されるだろう。
(――ああ、なんて、おぞましい救済)
私は、握らされた傘の柄を、自らの意志で弾き返した。
緋色の円盤が泥濘へと墜落し、跳ね返った汚水が私の頬を汚す。
少年の完璧だった微笑が、ノイズ混じりの静止画のように硬直した。
「……何故だ。何が不満なんだ? 君を守ろうとしているのに」
「あなたの傘は、世界を隠すだけ。私は、この冷徹な重力に打たれていたい。それが、私が私であるための、唯一の『痛み』だから」
「……狂っている。そんな未熟な感情に、何の意味があるというんだ。二文字で説明してみろよ」
「――『生』よ」
私は、彼の「透明な瞳」を見据えて吐き捨てた。
意味などない。効率など知らない。
ただ、この不快な湿度と、皮膚を刺す寒冷だけが、誰にも模倣できない私の輪郭を定義してくれる。
「さよなら。既製品の神様」
私は一度も振り返ることなく、再び「灰色の豪雨」の中へと踏み出した。
傘のない世界は、相変わらず容赦がなく、私の視界を暴力的に奪い去る。
けれど、その不自由さこそが、今の私にとっては至高の贅沢だった。
泥に塗れた赤いコートを翻し、私は都市の深部へと疾走する。
背後で、少年が差し出した「緋色の傘」が、主を失ったまま雨に打たれていた。
それは、救済という名の絶望の象徴。
私の睫毛を濡らすのは、電子の塵が混じった不純な水滴。
けれど、その一滴の冷たさが、今の私にはどんな甘い言葉よりも鮮烈に、「ここにいろ」と叫び続けていた。
渇きは、まだ癒えない。
癒えてしまえば、私は私でなくなってしまうから。
(第4章・了)




