無くてもいい幕間 第3章:無垢なる白と、墜落する羽の埋葬
喧騒の断崖から身を投げ、私は情報の届かぬ深淵へと逃亡した。
そこは、ネオ東京の血管系統から切り離された、無機質な余白。
四方を遮蔽する壁は、網膜を焼くほどの白濁に塗り潰されている。窓という概念は存在せず、ただ一つの寝台が、観測者の休息を無言で促すだけの空間。
「……セーフティ、展開」
扉が重厚な金属音を立てて閉ざされた瞬間、外界の湿ったノイズが死滅した。
代わりに頭上から降り注ぐのは、不純物を含まぬ「灰色の羽」。
それはシステムが生成した仮想の残骸か、あるいは誰かの祈りが挫折した欠片なのか。雪のような静謐さを伴い、羽毛は純白のシーツを汚れのように覆い尽くしていく。
私は、鎧のように重い「緋色の雨合羽」を脱ぎ捨てた。
鮮烈な赤が床に崩れ落ちると、そこには匿名の闇から漏れ出した、剥き出しの自我が残される。
纏ったのは、薄汚れた一枚の白い布。
鏡に映る主体は、未熟な果実のように青白く、それでいて、今にも壊れそうなほど鋭利な均衡を保っていた。
「……何を、待っているのかしら」
寝台に深く沈み込み、私は胎児の姿勢で自らを抱きしめる。
指先が肌に食い込み、微かな痛覚を呼び覚ます。
この檻の内側だけが、大人たちの望む「模範的な肖像」を演じる義務から解放される唯一の領土。ここでは、誰の査定も、誰の承認も必要ない。ただ、消え入りそうな心臓の鼓動だけを、一振りの真実として数えることができる。
ふと、枕元に放り出した端末が、死者のような蒼白い発光を放った。
「新着メッセージ:一文字の更新を検出しました」
画面を覗き込む。
そこには、逃げ場のない二進法の光が揺れていた。
『……愛。』
たった二文字の、けれど呪いのように重い、記号の死骸。
「……。聞き飽きたのよ、そんな軽い配列」
私は冷徹にデリート・キーをなぞる。
光は一瞬で霧散し、再び部屋を支配したのは、墜落し続ける灰色の羽音だけ。
文字にできない渇きが、喉の奥で焼け付くような熱を持って蠢いている。
求めているのは、美しく洗練された肯定ではない。
魂を抉り取るような拒絶。あるいは、この無垢な白を汚し尽くすほどの、生々しい絶望。
「あめが、止まないわね」
独白は、羽毛の堆積に飲み込まれて消えた。
現実と仮想の境界線が曖昧になる、この静寂の極北。
私は、スマートフォンの蒼い残光を道標に、自らの深層へと潜っていく。
泣き出しそうな貌を膝の間に隠し、未熟なままでいられる特権を貪りながら。
天井から舞い落ちる灰色は、いつしか私の輪郭を曖昧に塗り潰し始めていた。
埋葬。
それは、明日の既製品として再生するための、束の間の聖域。
私は、自らの体温だけを頼りに、音の無い海の中へと深く、深く、沈んでいった。
(第3章・了)




