無くてもいい幕間 第2章:万華鏡の模倣品、或いは既製品の夢
学術特区を統べるのは、露出過多のセンサーが捉えたような、彩度を剥奪された「白」の暴虐。
それは夜明けの祝福ではない。覚醒を強いる、LEDによる冷徹な処刑だ。
巨大な講義室は、管理された酸素と無菌の湿度が漂う、巨大なペトリ皿。
外の世界を汚す「液体静電気」の湿り気など、この高度な濾過空間には侵入を許されない。
整然と並ぶ長机には、光の幾何学で構成されたディスプレイ。
キーボードを叩く乾いた音が、微細な節足動物の羽音となって、個の輪郭を削り取っていく。
「……反吐が出る」
壇上の教授が説くのは、統計学という名の宗教。
いかなる消費行動が脳内の報酬系を最大化し、いかなる返報性が社会の歯車を円滑に回すか。
すべては演算可能。すべては代替可能。
ふと、前方席に座る者の網膜投影(AR)が、私の視界に「断片」として割り込んできた。
彼女は講義を無視し、虚空に指を走らせている。
『マジ、それな。超ウケる(笑)』
『わかる。私も全く同じこと考えてた!』
飛び交う文字列は、どれもが既製品のパッケージ。
流行の符牒(ふ牒)を自らの心根に無理やり嵌め込み、解像度を引き伸ばして再利用する、魂の希釈作業。
観測者である私の眼には、彼女たちが交わすそれは、ブロックノイズの奔流に見えた。
「同意」という定型文を送信するたびに、彼女たちの個性は摩耗し、標準化されていく。補正フィルターで陶器のように滑らかに加工された顔面。その奥に、熱量は微塵も宿っていない。
彼らは自らを「唯一無二」だと信じている。
けれど、その実態はアルゴリズムが推奨した『流行』という名のパーツを組み上げた、量産型のアンドロイドに過ぎない。
(もし今、私がこの席から消去されたとしても)
私は、赤い指先で自らの喉をなぞった。
明日には全く同じスペック、同質の装い、適度な「悩み」を備えた別の標本が、この空隙を埋めるだろう。社会という巨大なハードウェアにとって、個の代替不可能性など、処理を遅らせるだけの脆弱性だ。
「ねえ、昨日アップされた新作動画、観た?」
休憩時間を告げる電子音と共に、隣席の女子学生が、訓練された笑顔で接触してきた。
私は有線の絶縁体を片方だけ外し、氷点下の視線を向ける。
「観ていない。視神経を汚したくないから」
「えっ、相変わらず冷めてるねー。でも損してるよ。告白のシーン、最高に『エモかった』のに。あんな風に、愛してるって言われてみたいよね」
彼女が口にする『愛してる』。
その言霊は今や、コンビニの棚で腐りゆく安価なスナックより価値が低い。
画面の中で使い回され、タグとして消費され、誰の心も通わぬまま空中に漂う、ただの記号。
「……ねえ。その『エモい』という形容は、具体的にいかなる情動を指すの?」
「え? いや、エモいのはエモいっていうか……なんか、胸にグッとくる感じ?」
「『グッとくる』。それも誰かの受け売りね。あなたの心拍数が、本当にその言葉を肯定しているの?」
女子学生は、予想外の質疑に困惑を模倣して笑った。
その表情さえ、どこかの広告で見覚えのある、借り物の筋肉の動きだ。
「怖いなあ。そんなに難しく考えなくても、みんなが『良い』って言うものは、良いじゃない」
「『みんな』。その集合知の中に、あなた自身は一滴でも残っているの?」
私はそれ以上、声を発するのを辞めた。
彼女に本質的な対話を求めるのは、空のハードディスクに詩を乞うよりも虚しい。
再び耳の奥に絶縁体を押し込む。流れ込むのは、昨日と変わらぬ、荒廃した砂嵐の音。
私が求めているのは、そんな予定調和のやり取りではない。
例えば、相手を再起不能にするほど鋭利な、生々しい憎悪。
例えば、発露することさえ憚られるような、泥臭く整理のつかない、重い独占欲。
「好き」か「嫌い」か。あるいは「死」か「生」か。
これ以上分解できない、剥き出しの二進法的真実。
建前を削ぎ落とした先にある、痛切な「本物」。
たとえそれが、魂を砕く絶望であっても、私はこの街の『甘美な麻酔』より、その裂傷を欲していた。
ふと、強化ガラスの向こう側に目を向ける。
ネオ東京の虚空から、再び藍色の「万華鏡の破片」が降り始めていた。
それはすべてを同じ色彩に塗りつぶそうとする、停滞の象徴だ。
(模写して、貼付して、気に入らなければ消去する。私たちはいつまで、このデジャヴを踊り続けるのかしら)
授業終了のチャイムが響く。
学生たちは一斉に起立し、再び記号として都市の動脈へと溶け出していく。
私もまた、その波に紛れながら、無意識に鞄の中の赤いコートの端をなぞった。
そこに隠された、剥き出しの自我。
それは私にとって、このコピーだらけの肖像群に対する、密やかな叛逆の証だった。
「……空気が、重い」
完璧に管理された室内で、私は溺れるような錯覚に陥っていた。
誰よりも「生」に飢えながら、私自身もまた、この箱庭の一部として「未熟」を演じなければならない。
人混みを避け、私は講義棟を後にした。
向かうのは、洗練された上層階ではない。
もっと暗く、もっと湿った、情報の届かぬ『死角』へ。
私の足取りは自虐的でありながら、確かな殺意を孕んでいた。
この既製品の夢で溢れた世界で、せめて私だけは、解像度を下げずに堕ちていきたい。
その願いが、私をさらに孤独な深淵へと追いやっていく。
外へ踏み出すと、冷たい電子の糸が、私の白い頬を叩いた。
その不快な刺激だけが、今、私が「予備パーツ」ではないことを証明する、唯一の触覚だった。
(第2章・了)




