無くてもいい幕間 第1章:未熟なる観測者と紅の境界線
ネオ東京の夜帷は、肺胞を焼くシリコンの焦げた臭気と、猛毒のオゾンを孕んでいる。
このバベルの頂において、酸素とはもはや自然の恵みではなく、高度に清浄された電子の副産物に過ぎない。
地上百五十メートル。錆び付いた鉄骨の縁に、一滴の鮮烈な「赤」が点じられていた。
少女が纏う雨合羽だ。それは灰色の都市という名の墓標において、唯一、座標を主張する拒絶の色彩。
彼女の視界を侵食するのは、幾何学的なダイヤモンド状のフレームに切り取られた世界。網膜投影される「未熟」「物足りない」という無機質なタイポグラフィが、天からの灑水に溶けては明滅を繰り返している。
「……また、同じ不備の景色」
少女が膝を抱え、掠れた声音を漏らす。
その瞳の奥では、情報の奔流が解像度を上げ続け、彼女の精神を少しずつ削り取っていく。
上空を遊泳する巨大な仮想の長須鯨が、実体のない幸福を全方位に喧伝していた。偶像の微笑みは光子の破片となって、彼女の赤い衣を無情に叩く。
「警告。心拍数の異常上昇。情緒不安定な個体を確認」
頭上を掠める警備ドローンが、合成された慈愛の仮面を被って囁いた。
「市民番号8205、速やかに鎮静パッチを適用してください。安寧こそが、この都市の義務です」
「黙りなさい、空っぽの鉄屑」
少女は一瞥もくれず、有線の黒い紐――古色蒼然とした絶縁体を耳の奥へと捩じ込んだ。
プラグがジャックを噛み、世界との接続が断たれる。
奔流するノイズは死に、代わりに鼓膜を支配するのは、真空に似た静寂と、心臓の律動だけ。
「繋がるために呼吸しているわけじゃない」
彼女は、雨に濡れて白磁のように透き通った掌を見つめた。
汚濁を呪うにはあまりに幼く、けれど、無垢な祈りを捧げるには冷え切りすぎた指先。
大人たちはこの焦燥を『思春期のゆらぎ』という名のフォルダに分類し、処理しようとする。だが、この喉を焼く渇愛は、そんな既製品のタグ付けで癒えるほど安価なものではない。
ここは「無情」の檻だ。
あらゆる情動は数値化され、アルゴリズムが明日の体温から恋の賞味期限までを算出する。
そして、この世界は「無常」の墓標でもある。
血を吐く思いで綴った誓詞は、次のアップデートで跡形もなく消去される定め。
「美しくあれ。せめて、この汚れきった境界線の内側でさえ」
それが、彼女が自分自身に課した唯一の断罪であり、誇りだった。
媚びず、染まらず、群れず。
嘘と建前で塗り固められた廃墟において、せめて自らの「痛み」だけは、誰にも触れさせない純粋な結晶のまま保っておく。鋭利な剃刀のような感性を研ぎ澄ませ、欺瞞に満ちた空気に、小さくても確かな風穴を穿ち続ける。
「ねえ。そんな場所で、何を観測しているの?」
不意に、背後の扉が軋んだ。
ホログラム投影された「教育指導員」が、実体のない親愛を装って歩み寄る。
「死角を探しているだけよ。あなたの眼が届かない、本当の暗闇を」
「ハハ、それは難しい相談だ。今の世の中、すべては可視化され、救済されている。君の心拍も、分泌されるホルモンもね。……おや、少しばかり『渇き』の数値が閾値を超えている。甘いサプリメントを処方しようか?」
「……。結構よ。あなたの言う救済が、一番の毒だわ。その甘ったるい言葉を、二文字以内でまとめてから出直して」
少女は立ち上がり、非常階段の柵を強く握りしめた。
冷たい鉄の感触が、手のひらに生々しい実存を穿つ。
天泣は激しさを増し、不夜城のネオンはさらに深く、街を藍色に染め上げていく。
「……ここにいたいなんて、一度も願ったことはない。けれど、この雨だけは、私を嘘つきにしない」
独白は、電子の荒れ狂う咆哮にかき消された。
彼女は、網膜の隅で明滅する「全リセット」のコマンドを、ただ静かに見つめる。
実行すれば、この不快な湿度も、肺を焼く苛立ちも、すべてを白紙に戻せる。
けれど、彼女はその選択肢を、迷わずゴミ箱へと棄てた。
この閉塞感。この息苦しさ。
それこそが、この偽物の箱庭において彼女が手に入れた、唯一の「血の通った証左」だったからだ。
少女は、濡れた黒髪を乱暴にかき上げた。
ホログラムのクジラが、彼女のすぐ傍を、音もなく回遊していく。
その巨大な虚無の瞳に映る自分は、何て小さく、醜く、そして――。
「――笑っちゃうくらい、生きてる」
不夜城の夜は、まだ序章に過ぎない。
彼女は、イヤホンの音量を限界まで上げ、世界のノイズを嘲笑うように、激しく雨を見つめ続けた。
この灑水がいつか、この街の虚飾をすべて剥ぎ取り、むき出しの土と泥を晒してくれる日が来るのを。
明日の予報も、その次の日も。
この街には、止まない電子の雨が降り続けるのだとしても。
彼女は、錆びた階段を一段、踏みしめた。
自分の足音が、コンクリートの壁面に跳ね返り、孤独な叛逆のリズムを刻む。
それは、完成されたディストピアに対する、彼女なりの、静謐な宣戦布告であった。
(第1章・了)




