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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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無くてもいい幕間  第1章:未熟なる観測者と紅の境界線



ネオ東京の夜帷よとばりは、肺胞を焼くシリコンの焦げた臭気と、猛毒のオゾンを孕んでいる。

このバベルの頂において、酸素とはもはや自然の恵みではなく、高度に清浄された電子の副産物に過ぎない。


地上百五十メートル。錆び付いた鉄骨の縁に、一滴の鮮烈な「赤」が点じられていた。

少女が纏う雨合羽レインコートだ。それは灰色の都市という名の墓標において、唯一、座標を主張する拒絶の色彩。

彼女の視界を侵食するのは、幾何学的なダイヤモンド状のフレームに切り取られた世界。網膜投影される「未熟」「物足りない」という無機質なタイポグラフィが、天からの灑水さいすいに溶けては明滅を繰り返している。


「……また、同じ不備バグの景色」


少女が膝を抱え、掠れた声音を漏らす。

その瞳の奥では、情報の奔流ストリームが解像度を上げ続け、彼女の精神を少しずつ削り取っていく。

上空を遊泳する巨大な仮想の長須鯨が、実体のない幸福を全方位に喧伝していた。偶像の微笑みは光子の破片フォトンとなって、彼女の赤い衣を無情に叩く。


「警告。心拍数の異常上昇。情緒不安定な個体を確認」

頭上を掠める警備ドローンが、合成された慈愛の仮面を被って囁いた。

「市民番号8205、速やかに鎮静パッチを適用してください。安寧こそが、この都市の義務です」


「黙りなさい、空っぽの鉄屑スクラップ

少女は一瞥もくれず、有線の黒い紐――古色蒼然とした絶縁体イヤホンを耳の奥へと捩じ込んだ。

プラグがジャックを噛み、世界との接続が断たれる。

奔流するノイズは死に、代わりに鼓膜を支配するのは、真空に似た静寂と、心臓の律動ビートだけ。


「繋がるために呼吸しているわけじゃない」

彼女は、雨に濡れて白磁のように透き通った掌を見つめた。

汚濁を呪うにはあまりに幼く、けれど、無垢な祈りを捧げるには冷え切りすぎた指先。

大人たちはこの焦燥を『思春期のゆらぎ』という名のフォルダに分類し、処理しようとする。だが、この喉を焼く渇愛は、そんな既製品のタグ付けで癒えるほど安価なものではない。


ここは「無情」の檻だ。

あらゆる情動は数値化され、アルゴリズムが明日の体温から恋の賞味期限までを算出する。

そして、この世界は「無常」の墓標でもある。

血を吐く思いで綴った誓詞は、次のアップデートで跡形もなく消去デリートされる定め。


「美しくあれ。せめて、この汚れきった境界線の内側でさえ」

それが、彼女が自分自身に課した唯一の断罪であり、誇りだった。

媚びず、染まらず、群れず。

嘘と建前で塗り固められた廃墟において、せめて自らの「痛み」だけは、誰にも触れさせない純粋な結晶のまま保っておく。鋭利な剃刀のような感性を研ぎ澄ませ、欺瞞に満ちた空気に、小さくても確かな風穴を穿ち続ける。


「ねえ。そんな場所で、何を観測しているの?」

不意に、背後の扉が軋んだ。

ホログラム投影された「教育指導員」が、実体のない親愛を装って歩み寄る。


「死角を探しているだけよ。あなたのセンサーが届かない、本当の暗闇を」

「ハハ、それは難しい相談だ。今の世の中、すべては可視化され、救済されている。君の心拍も、分泌されるホルモンもね。……おや、少しばかり『渇き』の数値が閾値を超えている。甘いサプリメントを処方しようか?」


「……。結構よ。あなたの言う救済が、一番の毒だわ。その甘ったるい言葉を、二文字以内でまとめてから出直して」


少女は立ち上がり、非常階段の柵を強く握りしめた。

冷たい鉄の感触が、手のひらに生々しい実存リアルを穿つ。

天泣てんきゅうは激しさを増し、不夜城のネオンはさらに深く、街を藍色デリート・ブルーに染め上げていく。


「……ここにいたいなんて、一度も願ったことはない。けれど、この雨だけは、私を嘘つきにしない」


独白は、電子の荒れ狂う咆哮にかき消された。

彼女は、網膜の隅で明滅する「全リセット」のコマンドを、ただ静かに見つめる。

実行すれば、この不快な湿度も、肺を焼く苛立ちも、すべてを白紙ホワイトアウトに戻せる。

けれど、彼女はその選択肢を、迷わずゴミ箱へと棄てた。


この閉塞感。この息苦しさ。

それこそが、この偽物の箱庭において彼女が手に入れた、唯一の「血の通った証左」だったからだ。


少女は、濡れた黒髪を乱暴にかき上げた。

ホログラムのクジラが、彼女のすぐ傍を、音もなく回遊していく。

その巨大な虚無の瞳に映る自分は、何て小さく、醜く、そして――。

「――笑っちゃうくらい、生きてる」


不夜城の夜は、まだ序章に過ぎない。

彼女は、イヤホンの音量を限界まで上げ、世界のノイズを嘲笑うように、激しく雨を見つめ続けた。

この灑水がいつか、この街の虚飾をすべて剥ぎ取り、むき出しの土と泥を晒してくれる日が来るのを。


明日の予報も、その次の日も。

この街には、止まない電子の雨が降り続けるのだとしても。

彼女は、錆びた階段を一段、踏みしめた。

自分の足音が、コンクリートの壁面に跳ね返り、孤独な叛逆のリズムを刻む。

それは、完成されたディストピアに対する、彼女なりの、静謐な宣戦布告であった。


(第1章・了)

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