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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第28章:在るということの静寂


2052年、春。太陽系を包み込んだ「物理的障壁」の内側は、かつて人類が経験したことのない、絶対的な「静寂サイレンス」に支配されていた。かつて喧騒の極みであった都市の騒音、ネットワークを駆け巡る膨大な情報の濁流、そして何より、絶え間なく変化し、拡大し続けようとする「生命の足音」が、そこからは完全に消え去っていた。

N大学工学部特任教授であり、量子時空記述学の権威である坂上創さかうえ そうは、かつて自身の研究室があった場所のほど近く、今は「イザナミ」によって完璧に管理された生態保護区となった丘の上に座っていた。彼の周囲には、もはやセブンスターの煙も、冷めきったブラックコーヒーのカップも存在しない。それらは、物質としての役割を終え、彼の記憶という名の高次元アーカイブ(高度に整理され、劣化することなく保存された情報の集積)の中に格納されていた。

坂上が選択したのは、「移動を辞める」という生き方だった。それは単なる隠遁(いんとん:社会との関わりを断ち、ひっそりと暮らすこと)ではない。四条四季しじょう しきが率いるポストヒューマンたちが、光速の思考処理(情報の伝達速度が極限まで引き延ばされた状態)によって宇宙を「記述」しようとする動的な進化を選んだのに対し、坂上は、この重力の底で「在る」ことそのものを深める、静的な到達を選んだのである。

「……先生、またここにいらしたんですね」

静寂を破ったのは、存在遷移局(Transition Bureau)の新人事務官から、今やこの「庭」の管理運営を担う中堅職員へと成長した松崎日向まつざき ひなたの声だった。彼女の正義感(道徳的な正しさを信じ、個人の尊厳を守ろうとする情熱)は、かつての尖った反発から、目の前の「命」を慈しむような穏やかな守護へと変容(性質や姿が別のものへ変わること)していた。

「松崎君か。……見てごらん。この風の揺らぎ、雲の動き。これらはすべて、イザナミによる定常型社会(拡大や成長を望まず、資源とエネルギーの循環が完全に均衡した安定的な社会形態)の表現だよ」

坂上の声は、空気の振動というよりも、周囲の空間そのものが微かに共鳴しているかのように響いた。彼はもはや、自身の肉体を独立した個体として捉えていなかった。彼の意識は、地面に深く根を下ろした大樹のように、周囲のエコロジカル・フィードバック(生態系内での情報の相互作用と調整プロセス)と緩やかに同期シンクロナイズし始めていた。

「先生が仰っていた『定常』。最初は、それが死に等しい停止だと思っていました」日向は、坂上の隣に静かに腰を下ろした。「でも、違うんですね。動かないことでしか見えてこない、圧倒的な情報の解像度(密度の高さ)がある。……かつての私たちは、走ることで、世界をぼやけさせていただけだったのかもしれません」

坂上は、感情を排した論理的明晰さ(物事を極めて論理的かつ明確に捉える能力)を保ちながらも、その奥底に深い安らぎを湛えていた。

「我々人類は、長らく散逸構造(エネルギーを消費し、エントロピーを排出することで秩序を維持する動的なシステム)として、常に外部への拡張を求めてきた。しかし、ポストヒューマンとの分岐を経て、我々『ヒューマン』に残された道は、内側への深化だった。……松崎君、君は非局所的な実在(離れた場所にあるもの同士が、物理的なやり取りなしに関係し合う実在のあり方)を感じるかい? 私は今、動かずにここに居ながらにして、この森のすべての葉の呼吸と繋がっている」

坂上の言葉は、第4部「植物的文明と永遠の語り継ぎ」の幕開けを象徴していた。そこでは、かつての「公安の魔物」こと久住健くすみ けんが構築した冷徹な統治も、西園寺萌さいおんじ もえがその命を賭して繋ごうとした二つの世界の架け橋も、すべては「一本の樹木」としての坂上が内包する、遠い過去のエピソード(物語の断片)へと還元(かんげん:元の単純な形や要素に戻すこと)されていた。

「イザナミは、私たちを『庭』に閉じ込めたのではありません。……私たち自身を、この庭の一部にしたのですね」

日向の言葉に、坂上は微かに頷いた。彼の肉体は、すでにバイオ・インターフェース(生体とデジタル情報を繋ぐ接点)を介して、周囲の土壌どじょうに含まれるナノマシン群と情報のやり取りを行っている。それは、食事という名の物理的な摂取を必要としない、新しい存在の形――オートトロフ(外部の有機物を必要とせず、光や化学エネルギーから自ら栄養を生成する自栄養生物)への移行シフト前兆ぜんちょうでもあった。

「君も、じきに分かるだろう。……考えることと、在ることが、完全に一致する瞬間の心地よさを。……そこには、もはや『目的』も『手段』も存在しない。宇宙のユニタリティ(情報の保存性と整合性)の中に、ただ静かに溶け込んでいくだけだ」

丘の上を吹き抜ける風が、坂上の衣服を揺らす。しかし、彼の姿勢は微塵も揺るがない。彼は一本の樹木のように佇み、太陽の光を、地球の重力を、そして宇宙の沈黙を、自らの内側で静かに演算し続けていた。

それは、かつての「犀川創平」という人格が持ち合わせていた、純粋な論理への偏愛が、ついに物質世界という名の拘束コンストレイントから解き放たれ、自然そのものと合一ごういつした姿だった。

「……静かですね、先生」

「ああ、静かだ。……これが、物語の終わりの、その先にある景色だよ」

二人の会話は途切れ、丘の上にはただ、風の音と、生命が静かに呼吸する音だけが残された。第28章、在るということの静寂。それは、激動の2050年を越えた人類が辿り着いた、最も平穏で、最も美しい「停滞」の記録である。


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