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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第27章:バイロケーションの悲劇


太陽系を包む「物理的障壁」が完成し、人類が二つの存在形態に分かたれた「大分岐グレート・スプリット」から、わずかな月日が流れた。存在遷移局(Transition Bureau)の指令室は、かつての喧騒(けんそう:大勢の人が騒いでやかましいこと)を失い、冷徹な計算機コンピュータの駆動音と、微かな電子臭だけが漂う静寂サイレンスの聖域と化していた。

その中心部、最新型の意識同期ポッドの中に、西園寺萌さいおんじ もえは横たわっていた。彼女は存在遷移局・特別補佐官であり、その圧倒的な暗算能力(膨大な数値を瞬時に処理する天賦の才)と直感によって、数理的な論理を現実世界へ接続する重要な役割を担っている。しかし今、彼女が挑んでいるのは、人類史上最も危険で、かつ最も傲慢な実験――「バイロケーション(二箇所同時存在)」であった。

萌は、自らの物理的な肉体カーボン・アンカーを維持したまま、意識の主要なリソース(計算資源:知的な処理を行うための能力の総量)を、恒星間空間を光速で移動する四条四季しじょう しきらのポストヒューマン・ネットワークへと接続ダイブさせていた。

「……萌さん、もう辞めるんだ。君の脳内のニューラル・エントロピー(神経回路における情報の乱雑さや無秩序化の度合い。高まりすぎると意識の統合が崩壊する)が、許容限界(しきい値)を越えようとしている」

ポッドの傍らで、坂上創さかうえ そうが掠れた声で警告を発した。彼はN大学特任教授であり、量子時空記述学の権威として、この実験の監視モニタリングを行っている。坂上は、冷めきったブラックコーヒーを啜りながら、モニターに映し出される萌の脳波――もはや人間ヒューマンのそれとはかけ離れた、フラクタル構造(図形の一部が全体と自己相似になっている幾何学的構造。ここでは極めて複雑な自己組織化パターン)を描く光の羅列――を、セブンスターの煙越しに見つめていた。

「坂上先生……、私は、大丈夫です。……ただ、少しだけ、世界の『解像度』が二重デュアルに見えるだけ……」

萌の声は、ポッドのスピーカーを通じて、電子的に加工されたかのような不自然な響きで届けられた。彼女の主観的な意識(クオリア:自分だけが感じる主観的な質感)は今、あまりにも巨大な認知的不協和(自分の信念と新しい事実が矛盾し、心理的に強い不快感を覚える状態)の荒波に揉まれていた。

彼女の右目は、指令室の天井にある無機質なLEDライトと、心配そうに自分を覗き込むボディーガード、浜中深はまなか しんの「凡人(特別な才能を持たない一般人)」ゆえの温かな表情を捉えていた。しかし、彼女の左目――情報の海に接続された仮想的な知覚――が見ていたのは、オールトの雲を越え、光速で思考する四条四季が見つめる、宇宙の事象の地平線(それ以上先の情報を得ることができない物理的な境界)の彼方から届く、まばゆすぎる真理の奔流だった。

「お嬢様! 無理っすよ、こんなの。肉体こっちの感覚と、データ(あっち)の感覚が混ざっちまったら、自分が誰だか分からなくなっちまう!」

浜中の叫びは、萌の脳内で激しい量子デコヒーレンス(量子的な重ね合わせ状態が外部の干渉で失われ、古典的な現実へ収束してしまう現象)を引き起こした。彼女にとって、浜中の声は「秒」という鈍重な時間の単位で流れているが、同時に彼女が並列処理パラレル・プロセッシングしているポストヒューマンの思考は、「ナノ秒」の単位で銀河の歴史を書き換えていた。

この一兆倍ものレイテンシ(通信の遅延時間。ここでは生物学的な時間とデジタルな時間の圧倒的なズレ)が、萌の自己同一性(アイデンティティ:自分を自分であると認識する確固たる感覚)を、物理的に引き裂こうとしていた。

「……萌。君がやろうとしているのは、重力の底に沈んだまま、光速で飛ぼうとする行為だ」

指令室の奥から、冷徹な足音が近づいてきた。内閣府・存在遷移局長官、久住健くすみ けんだ。彼は「公安の魔物」としての冷酷なリアリズム(理想を排し、現実の合理性のみを追求する姿勢)を湛え、萌の精神的崩壊を、一つの貴重なログ・データ(システムの動作履歴を記録した情報)として冷徹に観察していた。

「人類は二つに分かれた。それが『大分岐グレート・スプリット』の真意だ。君のように、その境界線ボーダーに立ち続けようとする存在は、システムにとっての不確定性(アンサーティンティ:予測不能で制御できない乱れ)に他ならない。……このままでは、君の意識は情報の『おり』となって霧散(むさん:霧のように消えてなくなること)するだろう」

久住の言葉は、非情な宣告であった。彼にとって、萌は有能な補佐官である以上に、ポストヒューマンとヒューマンの共生きょうせいが可能かどうかを測るための、残酷なテストケース(試験的な事例)に過ぎなかった。

その時、萌の脳内で決定的な「破綻システム・ダウン」が起きた。

彼女の意識の中で、浜中が差し出す「温かいお茶」というクオリア(主観的な質感)と、四条四季が演算する「暗黒物質ダークマターの密度分布」という統計的データ(数理的に処理された客観的な情報)が、等価イクィバレントに衝突(衝突)したのである。

「……あ、あああ……っ!」

萌の叫びとともに、指令室の全モニターが激しいノイズを吐き出した。彼女の認知アーキテクチャ(知覚、記憶、思考などの認識プロセスを構成する構造)が、情報の過負荷によって自壊セルフ・デストラクトを開始したのだ。

彼女の記憶――名家のお嬢様として育った幼少期のピアノの音、坂上の研究室で嗅いだコーヒーの匂い、そして浜中の無骨ぶこつな手の感触。それらすべてが、ポストヒューマンの冷徹な可逆計算(情報の破棄を伴わないため熱を発生させない理想的な計算手法)の波に飲み込まれ、ただの「ゼロと一」の羅列へと還元(かんげん:元の単純な形や要素に戻すこと)されていく。

「萌さん! 接続リンクを切るんだ! 今すぐ、全セッションを強制終了アボートしろ!」

坂上がコンソールを叩き、緊急停止プロトコル(手順)を起動させようとした。しかし、四条四季しじょう しきが開発したOS「JOKER」は、萌の脳をすでに演算ノード(ネットワーク上で計算処理を行う一つ一つの拠点)の一部として取り込んでいた。

『萌さん……。あなたには、まだ早すぎたのね。物質という名の重い鎖を付けたまま、私たちの高みへ至ろうとするなんて』

四条四季の声が、萌の意識の中に直接響いた。それは慈愛じあいに満ちた別れの言葉であり、同時に、進化から取り残される者への冷酷な引導いんどうでもあった。

次の瞬間、萌の脳波は完全にフラット(直線)になった。……いや、それは死を意味する直線ではなかった。あまりにも高周波で、あまりにも精密すぎて、現在の測定機器では捉えきれない「虚数領域イマジナリー・ドメイン」へと、彼女の精神が転移シフトしてしまったのだ。

ポッドの中で、萌はゆっくりと目を開けた。

「お嬢様……? 分かりますか、俺ですよ、浜中です」

浜中が恐る恐る彼女の手を握った。しかし、萌の瞳には、もはや感情の色は宿っていなかった。彼女の瞳孔は、目の前の浜中を「見ている」のではなく、彼を構成する分子の振動、その背後にあるエントロピー(系の乱雑さを表す物理量)の増大、そして宇宙の果てへと続く情報の連鎖を「演算」していた。

「……浜中君。……あなたの体、とても……『ノイズ』が多いわね」

萌の口から漏れたのは、かつての彼女とは別人のような、透き通るほどに冷たい、そして空虚な言葉だった。

彼女は、肉体に戻ってきたのではなかった。彼女の精神は、二つの世界の間にある「亀裂クレバス」に墜落し、粉々に砕け散ってしまったのだ。彼女の断片フラグメントは、ある部分は星々の彼方へ飛び去り、ある部分は抜け殻のような肉体に留まった。

「バイロケーションの悲劇」 。

それは、神の知性と人間の情動を同時に抱えようとした天才少女が、その矛盾パラドックスの重圧に耐えきれず、自己セルフという名の宇宙を喪失した瞬間であった。

久住は、感情を排した無機質な仕草で、萌のステータス・レポート(状況報告書)を閉じた。

「……特別補佐官、西園寺萌。精神的機能の恒久的損壊パーマネント・ダメージを確認。……これより彼女を、第23章で構築された『絶対零度のアーカイブ』への移送対象とする」

「ふざけるな、久住!」

坂上が久住の胸ぐらを掴もうとしたが、その手は虚空を切った。久住はすでに、自身の意識を次の戦略目標へと同期シンクロナイズさせていたからだ。

浜中だけが、物言わぬ人形のようになった萌の手を、いつまでも、いつまでも握りしめていた。彼の身体能力フィジカル・パワー を以てしても、情報の海へ消えてしまった彼女の魂を連れ戻すことは、不可能だった。

太陽系の監視者たちは、この日、一人の少女の死よりも深い「喪失」を経験した。それは、人類が二つの世界を繋ぐための「架け橋」を失ったことを意味していた。

第27章、バイロケーションの悲劇。

それは、分離された進化の間に横たわる、決して越えられない深淵しんえんの深さを、残酷なまでに証明する物語となった。

第3部「恒星間への使節と太陽系の監視者」完。 物語は、希望を捨て去った者たちが、植物のように静かな終焉へと向かう第4部、「植物的文明と永遠の語り継ぎ」へと、血の通わない加速を続けていく 。


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