第27章:バイロケーションの悲劇
太陽系を包む「物理的障壁」が完成し、人類が二つの存在形態に分かたれた「大分岐」から、わずかな月日が流れた。存在遷移局(Transition Bureau)の指令室は、かつての喧騒(けんそう:大勢の人が騒いでやかましいこと)を失い、冷徹な計算機の駆動音と、微かな電子臭だけが漂う静寂の聖域と化していた。
その中心部、最新型の意識同期ポッドの中に、西園寺萌は横たわっていた。彼女は存在遷移局・特別補佐官であり、その圧倒的な暗算能力(膨大な数値を瞬時に処理する天賦の才)と直感によって、数理的な論理を現実世界へ接続する重要な役割を担っている。しかし今、彼女が挑んでいるのは、人類史上最も危険で、かつ最も傲慢な実験――「バイロケーション(二箇所同時存在)」であった。
萌は、自らの物理的な肉体を維持したまま、意識の主要なリソース(計算資源:知的な処理を行うための能力の総量)を、恒星間空間を光速で移動する四条四季らのポストヒューマン・ネットワークへと接続させていた。
「……萌さん、もう辞めるんだ。君の脳内のニューラル・エントロピー(神経回路における情報の乱雑さや無秩序化の度合い。高まりすぎると意識の統合が崩壊する)が、許容限界(しきい値)を越えようとしている」
ポッドの傍らで、坂上創が掠れた声で警告を発した。彼はN大学特任教授であり、量子時空記述学の権威として、この実験の監視を行っている。坂上は、冷めきったブラックコーヒーを啜りながら、モニターに映し出される萌の脳波――もはや人間のそれとはかけ離れた、フラクタル構造(図形の一部が全体と自己相似になっている幾何学的構造。ここでは極めて複雑な自己組織化パターン)を描く光の羅列――を、セブンスターの煙越しに見つめていた。
「坂上先生……、私は、大丈夫です。……ただ、少しだけ、世界の『解像度』が二重に見えるだけ……」
萌の声は、ポッドのスピーカーを通じて、電子的に加工されたかのような不自然な響きで届けられた。彼女の主観的な意識(クオリア:自分だけが感じる主観的な質感)は今、あまりにも巨大な認知的不協和(自分の信念と新しい事実が矛盾し、心理的に強い不快感を覚える状態)の荒波に揉まれていた。
彼女の右目は、指令室の天井にある無機質なLEDライトと、心配そうに自分を覗き込むボディーガード、浜中深の「凡人(特別な才能を持たない一般人)」ゆえの温かな表情を捉えていた。しかし、彼女の左目――情報の海に接続された仮想的な知覚――が見ていたのは、オールトの雲を越え、光速で思考する四条四季が見つめる、宇宙の事象の地平線(それ以上先の情報を得ることができない物理的な境界)の彼方から届く、眩すぎる真理の奔流だった。
「お嬢様! 無理っすよ、こんなの。肉体の感覚と、データ(あっち)の感覚が混ざっちまったら、自分が誰だか分からなくなっちまう!」
浜中の叫びは、萌の脳内で激しい量子デコヒーレンス(量子的な重ね合わせ状態が外部の干渉で失われ、古典的な現実へ収束してしまう現象)を引き起こした。彼女にとって、浜中の声は「秒」という鈍重な時間の単位で流れているが、同時に彼女が並列処理しているポストヒューマンの思考は、「ナノ秒」の単位で銀河の歴史を書き換えていた。
この一兆倍ものレイテンシ(通信の遅延時間。ここでは生物学的な時間とデジタルな時間の圧倒的なズレ)が、萌の自己同一性(アイデンティティ:自分を自分であると認識する確固たる感覚)を、物理的に引き裂こうとしていた。
「……萌。君がやろうとしているのは、重力の底に沈んだまま、光速で飛ぼうとする行為だ」
指令室の奥から、冷徹な足音が近づいてきた。内閣府・存在遷移局長官、久住健だ。彼は「公安の魔物」としての冷酷なリアリズム(理想を排し、現実の合理性のみを追求する姿勢)を湛え、萌の精神的崩壊を、一つの貴重なログ・データ(システムの動作履歴を記録した情報)として冷徹に観察していた。
「人類は二つに分かれた。それが『大分岐』の真意だ。君のように、その境界線に立ち続けようとする存在は、システムにとっての不確定性(アンサーティンティ:予測不能で制御できない乱れ)に他ならない。……このままでは、君の意識は情報の『澱』となって霧散(むさん:霧のように消えてなくなること)するだろう」
久住の言葉は、非情な宣告であった。彼にとって、萌は有能な補佐官である以上に、ポストヒューマンとヒューマンの共生が可能かどうかを測るための、残酷なテストケース(試験的な事例)に過ぎなかった。
その時、萌の脳内で決定的な「破綻」が起きた。
彼女の意識の中で、浜中が差し出す「温かいお茶」というクオリア(主観的な質感)と、四条四季が演算する「暗黒物質の密度分布」という統計的データ(数理的に処理された客観的な情報)が、等価に衝突(衝突)したのである。
「……あ、あああ……っ!」
萌の叫びとともに、指令室の全モニターが激しいノイズを吐き出した。彼女の認知アーキテクチャ(知覚、記憶、思考などの認識プロセスを構成する構造)が、情報の過負荷によって自壊を開始したのだ。
彼女の記憶――名家のお嬢様として育った幼少期のピアノの音、坂上の研究室で嗅いだコーヒーの匂い、そして浜中の無骨な手の感触。それらすべてが、ポストヒューマンの冷徹な可逆計算(情報の破棄を伴わないため熱を発生させない理想的な計算手法)の波に飲み込まれ、ただの「ゼロと一」の羅列へと還元(かんげん:元の単純な形や要素に戻すこと)されていく。
「萌さん! 接続を切るんだ! 今すぐ、全セッションを強制終了しろ!」
坂上がコンソールを叩き、緊急停止プロトコル(手順)を起動させようとした。しかし、四条四季が開発したOS「JOKER」は、萌の脳をすでに演算ノード(ネットワーク上で計算処理を行う一つ一つの拠点)の一部として取り込んでいた。
『萌さん……。あなたには、まだ早すぎたのね。物質という名の重い鎖を付けたまま、私たちの高みへ至ろうとするなんて』
四条四季の声が、萌の意識の中に直接響いた。それは慈愛に満ちた別れの言葉であり、同時に、進化から取り残される者への冷酷な引導でもあった。
次の瞬間、萌の脳波は完全にフラット(直線)になった。……いや、それは死を意味する直線ではなかった。あまりにも高周波で、あまりにも精密すぎて、現在の測定機器では捉えきれない「虚数領域」へと、彼女の精神が転移してしまったのだ。
ポッドの中で、萌はゆっくりと目を開けた。
「お嬢様……? 分かりますか、俺ですよ、浜中です」
浜中が恐る恐る彼女の手を握った。しかし、萌の瞳には、もはや感情の色は宿っていなかった。彼女の瞳孔は、目の前の浜中を「見ている」のではなく、彼を構成する分子の振動、その背後にあるエントロピー(系の乱雑さを表す物理量)の増大、そして宇宙の果てへと続く情報の連鎖を「演算」していた。
「……浜中君。……あなたの体、とても……『ノイズ』が多いわね」
萌の口から漏れたのは、かつての彼女とは別人のような、透き通るほどに冷たい、そして空虚な言葉だった。
彼女は、肉体に戻ってきたのではなかった。彼女の精神は、二つの世界の間にある「亀裂」に墜落し、粉々に砕け散ってしまったのだ。彼女の断片は、ある部分は星々の彼方へ飛び去り、ある部分は抜け殻のような肉体に留まった。
「バイロケーションの悲劇」 。
それは、神の知性と人間の情動を同時に抱えようとした天才少女が、その矛盾の重圧に耐えきれず、自己という名の宇宙を喪失した瞬間であった。
久住は、感情を排した無機質な仕草で、萌のステータス・レポート(状況報告書)を閉じた。
「……特別補佐官、西園寺萌。精神的機能の恒久的損壊を確認。……これより彼女を、第23章で構築された『絶対零度のアーカイブ』への移送対象とする」
「ふざけるな、久住!」
坂上が久住の胸ぐらを掴もうとしたが、その手は虚空を切った。久住はすでに、自身の意識を次の戦略目標へと同期させていたからだ。
浜中だけが、物言わぬ人形のようになった萌の手を、いつまでも、いつまでも握りしめていた。彼の身体能力 を以てしても、情報の海へ消えてしまった彼女の魂を連れ戻すことは、不可能だった。
太陽系の監視者たちは、この日、一人の少女の死よりも深い「喪失」を経験した。それは、人類が二つの世界を繋ぐための「架け橋」を失ったことを意味していた。
第27章、バイロケーションの悲劇。
それは、分離された進化の間に横たわる、決して越えられない深淵の深さを、残酷なまでに証明する物語となった。
第3部「恒星間への使節と太陽系の監視者」完。 物語は、希望を捨て去った者たちが、植物のように静かな終焉へと向かう第4部、「植物的文明と永遠の語り継ぎ」へと、血の通わない加速を続けていく 。




