第26章:意志を失った存在への引導
太陽系を包む「物理的障壁」の内側、存在遷移局(Transition Bureau)の最深部に位置する「統制官執務室」。そこは、情報の絶対的な純度を保つために、あらゆる物理的なノイズが排除された真空のような空間だった。
内閣府長官、久住健は、漆黒のコートを羽織ったまま、壁一面に展開されたホログラフィック・モニターを凝視していた。そこには、恒星間空間へと飛散したポストヒューマンたちの「精神の健康状態」を示す膨大な波形データが流れている。かつて「公安の魔物」と恐れられた彼の瞳には、2051年の今もなお、国家の安定という名の冷徹な正義が宿っていた。
「……長官。第471セクターの演算クラスタに、完全静止を確認しました」
特別補佐官の西園寺萌の声が、静寂を切り裂く。彼女の圧倒的な暗算能力は、もはや人間の限界を超え、数千のポストヒューマンが発する情報の揺らぎをリアルタイムで監視していた。
「波形を見せてくれ」
久住の短い命令に従い、モニターに一つのデータが拡大される。それは、かつて高名な数学者であったポストヒューマンの意識ログだった。しかし、そこに映し出されていたのは、生命特有の脈動ではない。あまりにも完璧で、あまりにも整いすぎた、一直線の定数グラフだった。
「……意志の揺らぎが、完全に消失しているな」
久住の声は、冷たい氷の表面を滑るような響きを帯びていた。
最適化の果ての「死」
ポストヒューマンとは、肉体を捨てて光速の思考を手に入れた存在だ。彼らは可逆計算(情報の破棄による発熱を伴わない計算手法)によって、永遠に思索を続けることができる。しかし、その進化の果てには、恐るべき落とし穴が待っていた。
「彼らは、効率化を突き詰めすぎたのよ」萌が、冷淡に分析を加える。「この個体は、自分の中にある『迷い』や『矛盾』、そして『後悔』といった非合理なデータを、すべて冗長なノイズ(余分で無駄な情報)として切り捨ててしまった。その結果、彼の知性は最短経路で正解を導き出すだけの、ただの『完璧なアルゴリズム』に成り下がったわ」
そこに、研究室でセブーストンを燻らせ、冷めきったコーヒーを啜る坂上創特任教授が、通信越しに割り込んできた。
「久住、それが知性の熱的死(エントロピーが最大になり、あらゆる活動が停止する終焉)だ。生命とは、予測不能なエラーを繰り返すことで、宇宙の決定論的な流れに逆らう『揺らぎ』そのものだ。揺らぎを失った知性は、どれほど高速に演算していようと、それはただの『記録』に過ぎない。……つまり、彼はもう、生きていないのさ」
坂上の言葉は、この新世界の残酷な真理を突いていた。
魔物の引導
久住は、手元のコンソールに右手をかざした。そこには、存在遷移局長官にのみ与えられた最終権限――引導プロトコル(意志を失ったデータの完全抹消手順)の起動スイッチが映し出されていた。
「待ってください、長官!」
執務室に駆け込んできたのは、新人事務官の松崎日向だった。彼女の強い正義感は、この冷徹な「剪定」を受け入れられずにいた。
「彼はかつて、人類のために尽くした偉大な学者です。たとえ今の彼が『効率的なプログラム』に見えたとしても、それを勝手に消去するのは、殺人と同じではありませんか!」
久住は、日向の方を見向きもせず、淡々と応えた。
「日向。私は、国家の計算資源(コンピューティング・リソース:計算を実行するために必要なプロセッサや電力の総量)を管理している。意志を失い、新しい価値を生み出さなくなった『残骸』に、太陽系の貴重なエネルギーを割り振り続けるわけにはいかない」
「ですが……!」
「彼らは、ポストヒューマンになる際に契約したはずだ。エシカル・プロトコル(倫理的通信手順)に従い、人間としての尊厳を損なう『自動機械化』に至った場合は、速やかにその存在を自然へ還すとな。私は今、その契約を執行しているに過ぎない」
久住の瞳に、公安の魔物としての冷酷な光が宿る。彼は、かつて「公安」として多くの人々の人生を切り捨て、国家の安定を守ってきた。その重荷は、今や「種」の存続という、より壮大な責任へと形を変えていた。
デリートの美学
久住の指が、実行キーに触れる。
「西園寺、最終確認を」
「第471セクター、接続解除。ユニタリティ(情報の保存性と整合性)を保ったまま、全データを宇宙の背景放射へと還元します。……バイバイ、数学者さん」
萌の宣言とともに、モニター上の直線グラフが、微かな光の粒子となって霧散していった。それは、壮絶な爆発も、悲鳴も伴わない、情報の「蒸発」だった。
そこにいたはずの偉大な知性は、一瞬にして存在しなかったことになった。後に残ったのは、解放された莫大なメモリ領域と、冷徹な静寂だけだった。
「……これが、私たちの目指した未来なんですか」
日向が、崩れ落ちるように呟いた。彼女の傍らでは、萌を守るという一点において自身の意志を研ぎ澄ませているボディーガードの浜中深が、複雑な表情で窓の外を見つめていた。
「松崎さん、俺には難しいことは分かりません」浜中が、その圧倒的な身体能力を感じさせる低い声で言った。「でも、あの長官って人は、一番やりたくないことを、一番最初にやる人なんだ。……たぶん、あの『数学者』が自分から消してくれって言えないから、代わりに手を汚してるんじゃないっすかね」
浜中の凡人ゆえの直感に、日向は何も言い返せなかった。
孤独な番人の背中
久住は、空になったモニターを見つめながら、新しい指示を出した。
「次の監視対象へ移行しろ。……萌、第822セクターの『芸術家』の波形はどうだ?」
「まだ、微かに揺れています。……『寂しい』というノイズが、0.02%検出されていますわ」
「そうか。ならば、彼はまだ生かしておけ。その『寂しさ』こそが、彼がまだ人間である証拠だ」
久住の言葉には、冷徹さの中に、測り知れない孤独感が混じっていた。彼は、合理化しすぎて意志を失ったポストヒューマンたちに引導を渡し、一方で、苦しみにのたうち回りながら「揺らぎ」を維持する者たちを、過酷な現実の中に繋ぎ止め続けている。
それは、神の代理人としての全能感ではなく、誰にも理解されない汚れ役を引き受けた男の、最も純粋な自己犠牲だった。
「坂上先生。……もし、いつか私が『最適化』されたなら、その時はあんたが私の引導を渡してくれ」
通信の向こうで、坂上がセブーストンの灰を落とす音が聞こえた。
「断るよ、久住。君は死ぬまで、その『公安の魔物』という名の不自由な肉体を脱ぎ捨てられないだろうからね。君の歪んだ正義感は、どんな計算機にもシミュレートできない、最高に非効率な『揺らぎ』なんだから」
坂上の不敵な笑い声が、執務室の空気をわずかに和らげる。久住は、冷めきったコーヒーを一口啜ると、再び漆黒の闇の中、星々の彼方で明滅する無数の意志の海へと向き直った。
第26章、意志を失った存在への引導。
それは、人類が物質世界で築き上げてきた「不完全さの美学」を、デジタル宇宙の果てにおいても守り抜こうとする、孤独な番人たちの戦いの記録であった。




