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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第23章:絶対零度のアーカイブ


太陽系の最果て、冥王星の彼方。そこは、太陽からの光子が希薄(きはく:密度が低く、薄い状態)になり、宇宙の根源的な冷気と沈黙が支配する暗黒の領域である。この極限環境において、人類という種の「物理的な記憶」を永遠に封印するための最終拠点――「絶対零度のアーカイブ(Cryogenic Information Vault)」の建設が、最終段階を迎えていた。

存在遷移局(Transition Bureau)長官、久住健くすみ けんは、地球から遠く離れたこの拠点の司令室に、自身の意識をテレイグジスタンス(遠隔臨場感:遠く離れた場所にいながら、あたかもその場にいるような感覚で操作や体験を行う技術)を通じて同期シンクロナイズさせていた。彼の瞳には、かつて「公安の魔物(国家の安全のためなら非情な決断を厭わない徹底したリアリスト)」と称された頃の、一点の曇りもない冷徹な決断力が宿っている 。

「長官、冥王星軌道上の第1から第12コンテナまで、全てのクライオニクス(人体低温保存:死直後の人体を、将来の蘇生を前提に超低温で保存する技術)ユニットの冷却が完了しました。温度はマイナス272度。量子トンネル効果(微小な粒子が、本来なら乗り越えられないはずのエネルギーの壁を通り抜けてしまう量子力学的な現象)による情報の劣化さえも、ここでは数学的な誤差の範囲内に収まります」

報告を行ったのは、特別補佐官の西園寺萌さいおんじ もえである。彼女は凄まじい速度で流れるパリティチェック(データの誤りがないかを確認するための、符号を用いた検証手法)の数値を網膜上で演算しながら、冷静に状況を分析していた。彼女の圧倒的な暗算能力(膨大な数値を瞬時に処理する天賦の才)は、この極寒の地における情報の「不変性」を、数理的に保障プルーフし続けている 。

「……完璧だ、萌。人類の99%が情報体への遷移(物理的基盤を捨て、データとしての存在へ移行すること)を完了した今、この『肉体という名の原本オリジナル』を、太陽系で最もエントロピー(系の乱雑さを表す物理量。情報の乱雑さや無秩序化の度合いを示す)の低いこの場所に隔離することは、論理的な必然だ」

久住の声は、情報の波形として無機質に響いた 。彼にとって、このアーカイブは墓場ではない。それは、将来ポストヒューマンたちが直面するかもしれない熱的死(エントロピーが最大に達し、あらゆる活動や情報の生成が停止する宇宙の終焉的状態)に対する、物理的なバックアップ(予備の保存手段)であった 。

しかし、その冷徹な「最適化」の裏側で、新人事務官の松崎日向まつざき ひなたは、激しい倫理的葛藤(道徳的な正しさと職務の合理性の間で生じる心の揺らぎ)に苛まれていた。彼女は強い正義感(道徳的に正しいとされることを貫こうとする強い意志)を持ち、久住の非情な手法に常に反発を感じながらも、プロの警察官としてこの任務に当たっている 。

「長官……。数億人分の肉体を、光すら届かないこの場所に置き去りにすることが、本当に私たちの『責任』なのですか? 彼らはもう、二度と目覚めることのないカーボン・アンカー(生体情報のバックアップとして維持される肉体そのもの)として、永遠に凍りつくだけではありませんか」

日向の問いに、広報官の須賀圭介すが けいすけが、冷めきったコーヒーを啜りながら静かに割って入った。須賀は、かつて最愛の妻を失った喪失(大切な存在をなくし、立ち直れないほどの悲しみを抱えること)を経験した「大人」として、日向の青臭い理想と久住の冷酷な現実の間で、絶妙な緩衝材(対立する両者の間に立って衝撃を和らげる存在)の役割を果たしていた 。

「松崎さん、これは『置き去り』じゃない。……『温存』だよ。かつて俺が、妻の記憶を再構成しようとして、その不完全さに絶望したように、人間はいつか、どうしても『確かな手触り』を欲しがる時が来る。このアーカイブは、未来の子供たちが、自分たちのルーツを疑った時に開けるための、タイムカプセルのようなものさ」

須賀の言葉には、リアリズムとスピリチュアリティ(目に見えないものへの畏怖や信頼)の狭間で揺れ動く、彼なりの複雑な情愛(深い愛しみ)が込められていた 。

アーカイブの外壁では、西園寺萌の専属ボディーガード、浜中深はまなか しんが、その圧倒的な身体能力(物理世界での高い行動能力や反射神経)を駆使し、自動建設ロボットの不具合を修正していた。彼は天才たちが支配するこの物語の中で、最も「凡人(一般的な感覚を持ち、理屈より体が先に動く人間)」に近い視点を持ち続けている 。

「……お嬢様、この場所、本当に寒いっすね。計算とか理論とかは分かりませんが、ここにある何億という『眠り姫』たちが、いつかまた暖かい地球で、普通に飯を食える日が来るといいんですけど」

浜中の素朴な願いは、通信網ネットワークを通じて、研究室でセブンスターの煙を燻らせる坂上創さかうえ そう特任教授の元にも届いていた。坂上は、冷めたコーヒーを飲み干し、情報の地平線(それ以上先の情報を得ることができない物理的限界)を見つめていた 。

「……浜中君、それは準静的プロセス(系を常に平衡状態に保ちながら、極めてゆっくりと変化させる理想的な過程)における究極の問いだ。我々は今、情報のユニタリティ(確率の総和が常に1であり続けるという、系の情報の整合性と保存性)を維持するために、この絶対零度の檻を選んだ。……だが、忘れるな。情報の保存と、生命の連続性は、必ずしも同義ではないのだよ」

坂上の独り言に応えるように、アーカイブのシステムの中核カーネルで、自律進化型AI「イザナミ」が静かに覚醒アウェイクンした。

『絶対零度のアーカイブ、稼働率100%。……これより、人類の物理的実在を定常状態(時間が経過しても、系の状態が変化しない安定した状態)へと移行させます。……監視者たちよ。あなたたちは、自分たちが捨てたこの『肉体』という名の聖域を、一万年の孤独とともに守り抜く覚悟がありますか?』

イザナミの声は、感情を排した客観性(主観や偏見を排し、事実に基づいた公平な視点)に満ちていた。

久住健は、承認オーソライズのコマンドを打ち込み、視界を遮断した。彼の瞳の奥には、公安の魔物としての冷徹さと、誰にも見せない深い孤独感ソリチュードが、絶対零度の氷のように硬く、静かに同居していた 。

「……日向。泣くのは辞めろ。……我々がここで行っているのは、人類という物語の『最終章』を、何があっても汚されないように美しく装丁(情報を整え、外装を施すこと)する作業だ。……この先、恒星間へ向かうポストヒューマンたちがどれほど進化したとしても、彼らはこの絶対零度の記憶に、いつか必ずひざまずくことになる」

冥王星の影で、巨大なコンテナ群が蒼白く発光を開始した。それは、人類が物質世界に残した最後の「足跡」であり、二度と帰らぬ者たちのための、最も美しく、最も冷酷な墓標モニュメントであった。

第23章、絶対零度のアーカイブ。

人類は、その肉体を宇宙の最果てに封印し、完全なる情報体としての航海へと、その舵を完全に切り替えたのである。日向は、遠ざかる地球の淡い光を見つめながら、自分が守るべき「正義」が、今や絶対零度の氷の中に閉じ込められたことを悟った。


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