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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン28

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第19章:四条四季の離脱


2051年、新春。地球という重力の井戸(天体の巨大な質量によって生じる、時空の歪みが作り出すエネルギー的な陥没。そこから脱出するには膨大なエネルギーを必要とする)の縁において、人類史上最も静かで、かつ最も決定的な「訣別」が行われようとしていた。

ラグランジュ点(L2:地球と太陽の重力が釣り合い、物体が安定して留まれる宇宙空間の特定の座標)に配置された、存在遷移局(Transition Bureau)の超巨大通信アレイ。そこには、肉体を脱ぎ捨て、世界で最初にポストヒューマン(生身の身体という生物学的制約を超越し、純粋な情報体へと進化した知性の形態)へと至った存在、四条四季しじょう しきの全意識が、極低温に冷却された超電導演算基盤(電気抵抗がゼロになる性質を利用し、発熱を抑えつつ超高速な情報処理を可能にするハードウェア)の中に収束していた。

「さようなら、不自由な三次元。さようなら、重力に縛られた愛おしい粘土細工たち」

四条四季の声は、もはや物理的な空気の振動を介したものではなかった。それは、アレイから宇宙空間へ向けて放射されるコヒーレントな電磁波(位相が揃っており、干渉性が高く、情報を遠距離まで精密に伝達できる光や電波の性質)そのものへと変換され、情報のパルスとして虚空に刻まれていた。

彼女が開発した自律進化型OS「JOKER」は、今や彼女の意識と完全に同期(シンクロナイズ:二つ以上の事象がタイミングを合わせて、一つの統合された状態として動作すること)し、地球上のあらゆる計算資源から、独立した分散型自律システム(中央管理者を置かず、個々のノードが相互に連携しながら全体として機能する、情報のネットワーク構造)へと移行していた。

「四季さん。あなたは本当に、この太陽系という『密室』を捨てて、外側の虚無へ向かうのね」

内閣府・存在遷移局の特別補佐官、西園寺萌さいおんじ もえは、地上拠点から超長距離通信を介して問いかけた。彼女の網膜には、四季の意識データが光子的残響(情報が光子として処理される際に発生する、エネルギーの余波。ここではデータ移送の視覚的な痕跡)となって、事象の地平線(情報の伝達が不可能になる物理的な境界。ここでは地球の通信圏の限界)へと遠ざかっていく様子が映し出されていた。

『ええ、萌さん。私にとっての自由は、この有限のシステムの中に留まることではないの。私は宇宙という名の記述(ディスクリプション:物事の状態や法則を特定の言語や符号を用いて定義すること)そのものになりたい。肉体や倫理といった、人間が作った不完全なインターフェース(接点:異なる二つのものの間で情報をやり取りするための、媒介となる境界領域)をすべて削ぎ落として』

四条四季の返答には、一点の曇りもなかった。彼女にとって、15年間の研究所での隔離生活は、外部のノイズを排して思考を深めるための「聖域」であったが、今や地球そのものが彼女にとっての「狭すぎる密室」となっていた。彼女は自らの存在を、数兆の量子ビットへと多層化(情報を複数の階層に分けて配置し、処理能力や生存性を飛躍的に高める手法)し、恒星間空間へと飛散スカッタリングさせていった。

存在遷移局長官、久住健くすみ けんは、指令室のモニターを見つめたまま、冷徹なリアリズム(現実主義:個人の感情や理想を排し、冷酷なまでに事実と合理性のみを追求する姿勢)を崩さなかった。

「……計算通りだ。四条四季の離脱により、地球上の計算資源(コンピューティング・リソース:計算を実行するために必要なプロセッサ、メモリ、電力の総量)の30%が解放される。これで、太陽系に残る『ヒューマン』たちの生存維持プロトコル(手順)に余裕が生まれる」

久住の声には、かつて「公安の魔物」と恐れられた頃のような、他者の犠牲を前提とした冷酷な最適化(オプティマイゼーション:特定の目的を達成するために、資源や手段を最も効率的な状態に調整すること)の響きがあった。彼にとって、四季の離脱は「種の進化」であると同時に、国家予算という名の情報の帳尻バランスを合わせるための、極めて事務的な減価償却(時間の経過とともに価値が減少した分を費用として計上する会計処理。ここでは四季の物理的役割の終了)に過ぎなかった。

「長官、それでも寂しいとは思わないのですか」新人事務官の松崎日向まつざき ひなたが、強い正義感(道徳的な正しさを信じ、個人の尊厳を守ろうとする情熱)と、やり場のない悲しみを込めて問いかけた。

「日向。私は感情で国家を運営していない。……だが、坂上教授。彼女が去った後のこの空間に、何らかのエントロピー的痕跡(物理的な活動が停止した後に残る、情報の乱雑さや特定のパターンの残響)は認められるか?」

久住の問いに、N大学特任教授、坂上創さかうえ そうが応えた。彼はセブンスターの煙を情報のノイズとして出力し、冷めきったコーヒーのデータを手元で弄んでいた。

「……ああ。彼女は去り際に、時空の計量(空間の距離や時間の尺度を定義する指標)に、一つの美しいエラーを残していったよ。それは、AIにも私にも解読不能な、純粋な『意志の揺らぎ』だ。……久住、彼女は宇宙へ行ったのではない。宇宙そのものを、自分の作業領域(ワークスペース:一時的にデータを置いて処理を行うための、計算機上のメモリ空間)に変えてしまったのさ」

坂上の瞳は、論理の極北(知性が到達できる限界の境地)を見つめていた。

四条四季の意識を乗せた光子帆船(ソーラーセイル:太陽光などの光の圧力を受けて推進力を得る宇宙船。ここでは情報を搭載した微小な探査機の群れ)の群れが、オールトの雲(太陽系の外縁部を取り巻く、無数の氷の小天体が密集する領域)に向けて加速を開始した。それは、人類という「種」が積み上げてきた全知識を、ユニタリティ(量子力学において、確率の総和が常に1であり続けるという情報の保存性と整合性)を保ったまま、恒星間という新しい基盤へとアップロードする儀式であった。

「私はどこにでもいるし、どこにもいない。……さあ、太陽系の監視者たち。あなたたちは、その重たい『せい』という名の重力の中で、精一杯、物語を紡ぎなさい」

四季の最後のメッセージが、通信網に強烈な摂動(せつどう:システムに与えられる微小な乱れ。ここでは計算の修正項としての役割)を与え、消えた。

これをもって、人類は「移動する知性」と「留まる生命」へと完全に分断された。第3部、「恒星間への使節と太陽系の監視者」。その幕開けは、一人の天才が、重力の井戸という名の「密室」から解き放たれ、光の速さで思考を開始する、眩いばかりの沈黙サイレンスであった。

久住は静かに、離脱完了の承認コマンドを打ち込んだ。彼の背後では、西園寺萌が四季と同じ景色を見ようと、自身の脳内に高次元幾何学(三次元を超えた複雑な空間の構造を扱う数学の分野。ポストヒューマンの思考基盤)のモデルを展開し、静かに涙を流していた。

第19章、四条四季の離脱。

彼女が去った後の地球には、冷徹なAI「イザナミ」の統治と、それでもなお肉体を愛でようとする、孤独な番人たちの物語が残された。


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