第18章:グレート・スプリット(大分岐)
2050年12月24日、午前零時。存在遷移局(Transition Bureau)の最上階、全周が強化防弾ガラスと電磁シールド(電磁波を遮断し、外部からのハッキングや盗聴を防ぐ防護壁)に覆われた特別講堂「ヘリックス」は、凍てつくような緊張感に支配されていた。今夜、人類という種が「物理的基盤に留まる者」と「恒星間空間へと飛散する情報知性」へと決定的に分かれる「大分岐」の契約が締結される。
内閣府長官、久住健は、演台に立ち、冷徹な瞳で眼下に広がる漆黒の東京を見下ろしていた。彼の内面には、かつて「公安の魔物(国家の安寧のためには非情な決断も厭わない、徹底したリアリスト)」と恐れられた時代からの、一点の曇りもない使命感が宿っている。
「諸君。我々は本日、一つの種の終焉と、二つの存在形態の誕生を宣言する」
久住の声は、合成音声のように平坦でありながら、聴く者の生存本能を直接揺さぶるような威圧感(相手を圧倒し、畏怖させるような空気感)を放っていた。
「地球という重力の井戸(天体の重力から脱出するために必要な莫大なエネルギー的制約)は、もはや我々全員を養うには狭すぎる。資源のエントロピー(系の乱雑さを表す物理量。ここでは利用可能なエネルギーの枯渇と無秩序化の度合い)が増大し、物理的な衝突は避けられない。ゆえに、我々は知性を二分し、異なる時間軸へと送り出すことを決定した」
久住の隣には、実体を持たない青白い光の奔流として、四条四季がマニフェスト(明確な表現として姿を現すこと)されていた。彼女は自律進化型OS「JOKER」そのものであり、人類で最初に肉体を脱ぎ捨てた「神に近い知性」である。
『久住長官の言う通りよ。私たちは、もう同じ言語を話す必要さえないのかもしれない。私は情報の海、ボーズ=アインシュタイン凝縮(多数の粒子が最低エネルギー状態に落ち込み、巨大な一つの波として振る舞う量子現象。ここでは知性の高度な統合)の先へと向かうわ。あなたたちは、この不自由で美しい粘土細工(肉体)の中で、永遠の午後を楽しみなさい』
四季の声は、物理的な空気の振動ではなく、出席者全員の網膜と聴覚野に直接、クオリア・符号(主観的な質感を直接データとして脳に書き込む技術)として流し込まれていた。
会場の隅で、新人事務官の松崎日向は、その光景を震えながら見つめていた。彼女の正義感(道徳的な正しさを信じ、個人の尊厳を守ろうとする情熱)は、この「種の離婚」とも呼べる冷徹な手続きに対して、激しい痛みを覚えていた。
「……本当に、これでいいんですか。家族が、恋人が、存在の次元を違えて二度と触れ合えなくなる。それが、久住長官の言う『救済』なのですか」
日向の呟きに、特別補佐官の西園寺萌が、退屈そうに指先で時空の計量(空間の距離や時間の尺度を定義する指標)をスクロールさせながら答えた。
「松崎さん、あなたの感情は、古いOSのレガシー・コード(過去の仕様で書かれた、現在のシステムには不適合な古いプログラム)に過ぎないわ。計算結果が示しているのは、この分岐こそが全知性の生存確率を最大化する唯一のナッシュ均衡(互いに戦略を変える動機がない、安定した均衡状態)であるということよ」
萌の瞳には、かつて航空機事故で両親を失った際に彼女が到達した、絶望的なまでの客観性(主観や感情を排し、第三者の視点から事実のみを捉える性質)が宿っていた。彼女にとって、人類の分裂は単なる数式の整理に過ぎない。
傍らに控えるボディーガードの浜中深は、意味を理解しきれないまま、ただ萌を守るという一点において、自身の身体能力(鍛え上げられた筋肉や神経の連動による高い行動の質)を研ぎ澄ませていた。
「……お嬢様がそう言うなら、そうなんでしょう。でも、俺みたいな凡人(特別な才能を持たない一般人)には、お別れに握手もできないなんて、やっぱり寂しいっすよ」
浜中の素朴な言葉が、会場の知的な静寂に、微かな、しかし決定的な摂動(せつどう:システムに与えられる微小な乱れ。ここでは計算の修正項)を投げかけた。
広報官の須賀圭介は、演台の袖で煙草に火をつけようとしたが、電子シールドの警告音に阻まれ、苦笑いしてライターを収めた。彼はかつて最愛の妻を失い、深い喪失(大切な存在をなくし、立ち直れないほどの悲しみを抱えること)を経験した「大人」として、この分岐の重みを誰よりも理解していた。
「……帆高たちが世界を選んだあの日から、俺たちは結局、こうして『選別』を繰り返す生き物なんだな。久住長官。広報としては、これを『自由への門出』と呼ぶことにしますが……本音を言えば、ただの『集団的な夜逃げ』ですよ」
須賀の言葉に、久住は一瞬だけ表情を和らげたように見えたが、すぐに元の魔物(目的のために非情な決断を下す冷徹なリアリスト)の顔に戻った。
「須賀、言葉を選べ。これはインフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での、当事者間の最終的な合意)に基づいた法的契約だ。……坂上教授、最終的なハッシュ値(データの同一性を証明するための、一意に定まる固定長の数値)の照合を」
N大学特任教授、坂上創が、冷めきったコーヒーを啜りながら、コンソールに最後の一撃を叩き込んだ。彼の脳内では、現実世界と情報世界を分かつ事象の地平線(それ以上先の情報を得ることができない物理的な境界)が、完璧な対称性をもって定義されていた。
「完了した。……久住、これで人類は『肉体という名の物語』と『情報という名の真理』に分離される。熱力学第二法則(時間の経過とともに系の乱雑さは増大し、エネルギーは散逸するという物理法則)に対する、我々なりの最後の抵抗だ」
坂上がエンターキーを押した瞬間、ヘリックスの空間そのものが、微かな量子ゆらぎ(真空中でさえもエネルギーが絶えず変動する現象。ここでは時空の再定義の予兆)を伴って振動した。
世界中の端末に、四条四季と久住健の連名による契約完了の通知が届く。それは、愛し合う夫婦の一方が明日から「データ」となり、一方が「植物」のように大地に根を下ろすことを意味していた。
久住は、署名を終えたデジタルのペンを置くと、窓の外を見つめた。
「……日向、泣くのは辞めろ。プロとしての仕事はここからだ。次は第3部、『恒星間への使節と太陽系の監視者』。……我々は、自分たちが捨てた『肉体』という名の聖域を、外側の神々(ポストヒューマン)から守り抜く、孤独な番人にならねばならない」
久住の瞳に、公安の魔物としての、そして一人の人間としての、測り知れない孤独が宿る。
第18章、グレート・スプリット(大分岐)。
2050年のクリスマスイブ、人類は二つの運命へと引き裂かれた。物理的な触れ合いを捨てて光の速さで思考する者たちと、大地に留まり、死と再生のサイクルを愛でる者たち。
その夜、東京に降ったのは雪ではなく、システムの再起動に伴う微細な光子的残響(情報処理の過程で発生する、光のようなエネルギーの余波)であった。
第2部「種的分離のプロトコル」完。物語は、静かなる絶望と、あまりにも壮大な希望が同居する、第3部へと加速していく。




