第17章:魔物のインフォームド・コンセント
内閣府・存在遷移局(Transition Bureau)の地下深く、第4特別告知室。そこは、「第零次転回」を経て物質的身体を脱ぎ捨てる決断を下せない国民に対し、最終的な告知(ディスクロージャー:情報の開示、あるいは真実の伝達)を行うための、冷徹な聖域であった。
室内には、無機質なLEDの光と、高度に制御された空調の微かな風音だけが漂っている。デスクを挟んで座るのは、局長官の久住健だ。彼は、かつて「公安の魔物」と恐れられた時代と変わらぬ、徹底したリアリズム(現実主義:個人の感情や理想を排し、冷酷なまでに事実と合理性のみを追求する姿勢) を纏い、一人の女性を見据えていた。
女性の名は、下村藍。彼女はこの激動の時代において、人々の髪を整えながらその悩みを聞くという、極めて「身体的」なサービスに従事してきた理容師である。彼女は、久住がかつて「協力者」として徹底的に利用し、複雑な感情を抱かせてきた人物の人格特徴(パーソナリティ:個人の思考、感情、行動の独自のパターン) を色濃く継承していた。
「下村さん。君の脳内におけるセロトニン受容体(神経伝達物質を受け取り、精神の安定や幸福感を司るタンパク質)の活性は、現在、臨界点を下回っている。君が抱いているその『不安』は、単なる化学的な信号の乱れに過ぎない」
久住の声は、感情の起伏を完全に削ぎ落とした、絶対的な静寂を伴っていた。
「ですが、長官……。私は、自分の指先が感じる髪の手触りや、お客さんの笑顔、そういう『生身の感覚』を捨てたくないんです。それを失ってしまったら、私は私ではなくなってしまう」
藍の声は震えていた。彼女にとって、肉体とは不自由な檻ではなく、世界と自分を繋ぐ唯一のインターフェース(接点:異なる二つのものの間で情報をやり取りするための境界)であった。
その光景を、マジックミラー越しの監視室から新人事務官の松崎日向が、唇を噛み締めながら見つめていた。彼女の正義感(倫理観:道徳的に正しいとされることを貫こうとする強い意志) は、久住が用いているサブリミナル・パースエージョン(潜在意識への説得:本人が気づかないレベルの刺激で、意思決定を操作する心理技法)に対し、激しい拒絶反応を示していた。
「久住長官は、また彼女の弱みを握って、マインド・コントロール(心理操作:他者の思考や行動を、特定の方向へと誘導し支配すること) を行おうとしている。……あれは、インフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での合意)なんかじゃない。魂のハッキング(不正侵入:システムの脆弱性を突き、権限を奪取して改変すること)だわ」
日向の隣では、特別補佐官の西園寺萌が、退屈そうに膨大な認知負荷(コグニティブ・ロード:情報処理の際に脳にかかる負担の大きさ)のグラフをスクロールさせていた。
「松崎さん、落ち着いて。久住さんの手法は、計算上は最も効率的なのよ。下村さんのような高共感個体(ハイ・エモーショナル:他者の感情を敏感に察知し、強く影響を受ける性質)を説得するには、論理ではなく、彼女の認知バイアス(思考の偏り:経験や先入観によって、論理的判断が歪められる現象)を突くのが正解だわ」
告知室内で、久住は静かに立ち上がった。彼の動きは、四条四季が開発したOS「JOKER」 の一部であるかのように、一切の無駄がない。
「下村さん。君が愛している『手触り』も『笑顔』も、すべては脳が生成したクオリア(主観的な質感:意識の中に現れる、言葉では表現しきれない感覚の質) に過ぎない。ポストヒューマンへと移行すれば、君はその感覚を、劣化(エントロピーの増大)のない永遠のデータとして保持できる。……君が恐れているのは『死』ではなく、自分の価値が消失することではないのか?」
久住は、彼女の心の奥底に潜む深い孤独感 を、鋭いナイフのように抉り出した。
「君は、かつての客たちの記憶をすべて持っている。その膨大な情報理論的価値(インフォメーション・バリュー:データが持つ、不確実性を減少させるための有用性の大きさ)を、肉体の朽ち果てるとともに消去させることは、人類に対する罪だ。……君は、情報の海の中で、永遠の理容師として存在し続けることができるんだ」
久住の言葉は、藍の防衛機制(心理的自己保護:不安や不快な感情から自分を守るための無意識的な心理メカニズム)を、一枚ずつ剥がしていく。彼は、彼女が大切にしている「献身」という概念を、最適化(オプティマイゼーション:特定の目的のために、資源や手段を最大限に活用すること)された社会貢献へと書き換えようとしていた。
「……長官、私は……」
藍の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、物質世界における彼女の最後の非決定論的出力(ランダム・アウトプット:因果律では予測できない、生命固有の揺らぎの表現)であった。
「心配しなくていい。君のその『涙』というクオリアも、私が責任を持ってアーカイブ(保存記録)する。……署名しろ、下村。君の意志を、宇宙の定数にするために」
久住は、ホログラフィック・ペンを彼女に差し出した。その仕草は、救済を与える神のようであり、同時に、獲物の魂を狩る魔物のようでもあった。
藍が震える手でペンを取り、空中にサインを刻んだ瞬間、彼女の脳内のニューラル・ネットワーク(神経回路網:思考や記憶を司る脳内のネットワーク構造)は、ネットワークを介して「JOKER」へと同期を開始した。
「告知、完了。……存在遷移、フェーズ1へ移行」
久住は通信機に向かって短く告げた。監視室の日向は、崩れ落ちる藍の姿を見て、激しい吐き気を覚えた。
「……長官、あなたは彼女を『救った』つもりなんですか? 彼女は、自分の意志で選んだんじゃない。あなたの心理工作(インテリジェンス・ワーク:情報の操作や心理的圧迫を通じて、対象を意図した方向へ動かす活動) に屈しただけだ!」
日向がマイクを通じて叫んだが、久住は鏡の向こうを見据えたまま、冷徹に応えた。
「松崎。君が言う『自由意志』など、この計算資源(コンピューティング・リソース:計算を実行するために必要なプロセッサやメモリの総量)が支配する世界では、ノイズに過ぎない。……だが、忘れるな。私は彼女を殺したのではない。彼女の『揺らぎ』を、永遠の孤独から解放したのだ」
久住の言葉の裏には、自らも「魔物」となることで国家を守り、その代償として抱え続けてきた、誰にも見せない深い葛藤 が、情報の残響として微かに響いていた。
第17章、魔物のインフォームド・コンセント。
それは、人類が「人間」であることを辞めるための、最も残酷な通過儀礼であった。久住健は、下村藍の記憶という名の重荷を自らの肩に積み増し、次の「告知者」が待つ暗い廊下へと、迷いのない足取りで消えていった。




