第3章:黒い雨の洗礼
モンテカルロがさらに都心へと深く入り込むと、空の色は不気味な鉛色から、油を流したような濁った黒へと変色していった。2025年の東京において、この空の色は死の予兆だ。核震災の残留物を含んだ雲が、時折、牙を剥くように不吉な雨を降らせる。
「……降り始めたな。黒い雨だ」
志藤はワイパーを作動させた。重く粘り気のある雨粒が、特殊強化ガラスを汚していく。車は、かつての中央区、現在は「隔離セクター・ゼロ」と呼ばれる廃墟の只中で停車した。周囲には、崩壊したビルの骨組みが、巨大な獣の肋骨のように突き出している。
志藤はエンジンを切ると、無造作にグローブボックスを開けた。中から取り出したのは、復興庁の厳重な封印が解かれた、一本の銀色のシリンダーだった。
「日向。お前、これを見たことがあるか?」
シリンダーの中には、不気味に発光する青い液体が揺れていた。凱の心拍数が跳ね上がる。警察学校の講義で見たことがある。それは、再建現場での肉体労働を極限まで効率化するために開発されたが、依存性と脳への深刻なダメージから即座に禁止された、ナノマシン製剤「ブルー・ゴースト」だ。
「……違法薬物、それもナノマシン製剤の試作型ですね。なぜ、あなたがそれを持っているんですか?」
「『なぜ』だと? 現場の空気をお前に教えるためだよ」
志藤は冷笑を浮かべ、シリンダーを凱の目の前に突き出した。
「この街の捜査官に必要なのは、バッジじゃない。五感すべてを使って『違法』を理解することだ。売人が何を売り、ジャンキーが何を見ているのか。それを知らずにどうやって狼を狩るつもりだ?」
「冗談はやめてください。私は復興執行官として、法を執行するために来ました。自ら法を犯すなど――」
「法だと?」
志藤の声が一段低くなり、車内の空気が一変した。彼は電光石火の動きで凱の胸ぐらを掴み、シートに押し付けた。その瞳には、大和の主砲から放たれる衝撃波のような、抗いがたい暴力的な圧力が宿っていた。
「法は大和の甲板に置いてきたと言ったはずだ。ここでは俺が法だ。お前は今日一日、俺の『トレーニング』を受ける。それとも何か、多摩のキャンプで震えている家族の元へ、無職になって帰りたいか? 『誠実だが無能な父親』として一生を終えるか?」
凱は言葉を失った。志藤は凱の弱点――家族への愛と、そこからくる上昇志向を完全に把握していた。志藤は凱の抵抗が弱まったのを見逃さず、シリンダーの先端を強引に凱の鼻腔へと押し当てた。
「吸え。深く、肺の奥までだ。現場の空気を吸え、日向!」
強制的に起動されたシリンダーから、高濃度のナノマシンが霧状となって凱の体内に流れ込んだ。
直後、凱の世界が弾けた。
視界が異常なまでに鮮明になり、雨の音、遠くで崩れる瓦礫の軋み、志藤の荒い呼吸音が、まるで至近距離で鳴り響く大太鼓のように鼓膜を叩く。脳内に直接、拡張現実(AR)のデータが流れ込んでくるような錯覚。目の前の瓦礫の山が、分子レベルで分解され、再構築されるデジタルツインの幻影が見える。
「……ああ、あ……っ!」
凱は激しい眩暈に襲われ、ダッシュボードに突っ伏した。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から嫌な汗が吹き出す。
「いい気分だろう? これが、この街を動かしている『エネルギー』の正体だ」
志藤は満足げに背もたれに寄りかかり、再び煙草に火をつけた。窓の外では、黒い雨が激しさを増し、瓦礫の街をさらに暗く塗り潰していく。
「お前はさっき、少女を助けようとしたな。だが、この薬を打った連中にとって、慈悲なんてものはデータ上のノイズに過ぎない。彼らが見ているのは、次の『一服』をどう手に入れるか、それだけだ」
志藤は煙を吐き出し、朦朧とする凱の頭を乱暴に撫でた。
「おめでとう、日向。これでようやく、お前は『羊』の皮を半分脱いだ。この不快感、この罪悪感こそが、本物の狼になるための洗礼だ。……吐き気が収まったら、次の仕事だ。三賢者たちが、俺たちに『ご馳走』を用意して待っている」
凱は必死に意識を保とうとした。脳内を駆け巡るナノマシンの脈動が、彼の潔白だった正義感を、黒い雨と同じ色に染めていくのを感じていた。
戦艦大和が停泊する海の方は、もう見えない。あるのは、ただ果てしなく続く、灰色のジャングルの闇だけだった。




