第4章:空中回廊の私刑(リンチ)
ナノマシン製剤「ブルー・ゴースト」がもたらした覚醒は、日向凱の脳を地獄のような万能感で満たしていた。
網膜に直接投影される拡張現実(AR)のノイズが、瓦礫の街をデジタル上の幾何学模様へと解体していく。崩れたビルの温度、空気中の放射線量、さらには逃げ惑うネズミのバイタルサインまでが、色鮮やかな熱源グラフとして視界を支配していた。
「……世界が、透けて見える」
凱が掠れた声で漏らすと、志藤は満足げにハンドルの上の指を弾いた。
「それが『真実の解像度』だ、日向。お前が今まで見ていたのは、復興庁がフィルターをかけた低画質のファンタジーに過ぎない。現実ってのは、もっと醜くて、もっと情報量が多いんだよ」
モンテカルロは、かつての湾岸線を貫く巨大な構造物の下で停車した。
見上げれば、地上数百メートルの高さに「空中回廊」が網の目のように張り巡らされている。それは核震災で壊滅した地上の交通網を放棄し、ドローンと富裕層の移動専用に構築された、復興の象徴たる「天空の道」だった。
「行くぞ。今日は、空の掃除の仕方を教えてやる」
志藤はモンテカルロのトランクから、重厚な電子妨害装置と、復興執行官の特権であるマスターアクセス・キーを取り出した。二人は、回廊を支える巨大なタワーの基部にある、厳重なセキュリティゲートへと向かった。
タワー内部のエレベーターが、重力を無視するような加速で上昇する。
凱の脳内でナノマシンが脈動し、エレベーターの駆動音が、巨大な獣の心音のように増幅されて聞こえた。不快な吐き気と、すべてを把握しているという全能感が、彼の倫理観を内側から削り取っていく。
「志藤執行官、ここでの目的は何ですか? 空中回廊の警備は、民間軍事会社(PMC)の管轄のはずですが」
「PMC? あいつらは金で動く時計仕掛けの人形だ」
志藤はエレベーターの鏡面に映る自分の姿を整えながら、冷淡に言い放った。
「最近、再建用の高純度チタンを積んだ貨物ドローンが、このセクターで『行方不明』になる事件が多発している。三賢者たちは、それがただの事故だと思いたがっているが、犯人は分かっている。身内の仕業だ」
エレベーターが最上階の監視デッキに到着すると、そこには数人の男たちがいた。
彼らは復興庁の腕章を巻いた下級役人と、現場の物流を担当する民間業者の男だった。志藤の姿を見るなり、リーダー格の男――物流主任の田中が、顔を青ざめさせた。
「志藤さん……どうしてここに? 視察の予定は明日のはずでは」
「予定は未定だと言わなかったか、田中」
志藤は歩みを止めず、展望デッキの中央にあるホログラフ・コンソールへと近づいた。そこには、現在この回廊を飛行している数百台のドローンの位置情報が、リアルタイムで表示されている。
「最近、ドローンのGPSデータに奇妙な『瞬き』がある。まるで、特定の場所を通る時だけ、この世から消えているようだな」
「それは……磁気嵐の影響でして。核震災の残留電磁波がまだ——」
「嘘を吐くな」
志藤の声が、物理的な圧力となって田中を壁際まで追い詰めた。
「お前はドローンの制御信号を数秒間だけハッキングし、空中でコンテナの中身を『 HexCrab(多脚重機)』の待つ闇市場へ落としている。その分け前で、多摩の高級シェルターに愛人を囲っているのも、すべてデータ(記憶の川)に残っているんだよ」
田中は震える手で懐の端末に手を伸ばそうとした。だが、それよりも早く、志藤が田中の手首を掴み、そのままコンソールの硬い縁に叩きつけた。
鈍い骨折音が静かなデッキに響く。凱は反射的に一歩踏み出そうとしたが、志藤の鋭い眼光に射すくめられた。
「動くな、日向。これは『トレーニング』だ。法を破った狼がどうなるか、その目に焼き付けておけ」
志藤は田中の端末を奪い取ると、凱の目の前で回廊のハッチを強制解放した。
地上三百メートルの冷たい風が、室内に吹き込んでくる。志藤は悲鳴を上げる田中を襟首だけで引きずり、回廊の縁へと連れて行った。
「志藤さん! 待ってください! 金なら払います! 分け前を三倍に――」
「金の問題じゃない。お前は『システム』を汚した。この街を再建するための血を、自分の私腹を肥やすために流したんだ」
志藤は、眼下に広がる広大な瓦礫の海を指差した。
そこには、大和が流す「希望の歌」も届かない、暗く沈んだ旧都の絶望が広がっている。
「日向、見ろ。この高さから見れば、地上の羊どもはただの点だ。だが、あいつらがいつかこの回廊を歩く日を夢見て、泥を啜っている。この男は、その夢を盗んだんだ。……さあ、判決を下せ。羊でいるか、狼になるか、今ここで決めろ」
志藤は田中の体を半分、回廊の外へと突き出した。
凱の脳内で、ブルー・ゴーストのナノマシンが激しく火花を散らす。
正義とは何か。法を守るとはどういうことか。目の前の男は、明らかに越権行為を行っている。だが、志藤の言う通り、田中が物資を横流しにしていれば、そのせいで再建が遅れ、避難民キャンプで凍死する人間が増えるのもまた事実だった。
「……法に従って、逮捕すべきです。裁判にかけるべきだ」
凱の声は震えていた。志藤は心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「裁判? 三賢者が選んだ判事が、自分たちの利権に関わる汚職をまともに裁くとでも思っているのか? 判決が出る頃には、この男は恩赦で釈放され、また別の場所でドローンを盗んでいるさ。……効率が悪いんだよ、正義ってやつは」
志藤は田中の手を離した。
だが、彼を突き落としたわけではない。志藤が操作したのは、回廊の「防衛用ドローン」の制御権だった。
空中を浮遊していた数台の警備ドローンが、赤い警告灯を点滅させながら収束し、田中の周囲を取り囲んだ。
「私刑じゃない。これは『事故』だ。物流主任が、管理ミスで警備ドローンの誤射を受けた。……日向、報告書にはそう書いておけ」
ドローンのレーザー照準が田中の胸元に集中する。凱は叫ぼうとしたが、志藤の手が彼の肩を強く、優しく押さえた。
「狼になれ、日向。深淵を覗く時は、自分もまた深淵になるんだ。この汚れた手を洗うための水は、もうこの街には残っていない」
一筋の青い閃光が走り、田中の体は回廊から瓦礫の海へと吸い込まれていった。
沈黙が訪れる。
吹き付ける風の音だけが、凱の耳の中で鳴り響いていた。
志藤は平然とコンソールを操作し、ログを消去すると、何事もなかったかのように凱に背を向けた。
「次の現場だ。腹が減ったな。源三のじいさんのところで、まともな食事でもしよう」
凱は、回廊の縁から下を覗き込んだ。
そこには、自分の正義感がバラバラに砕け散ったような、深い闇があるだけだった。
遠く東京湾の中央に、戦艦大和の巨大なシルエットが月明かりに照らされて浮かんでいる。
かつては希望の象徴に見えたその巨躯が、今は巨大な墓標のように、沈黙して街を見下ろしていた。
凱は、自分の手がかすかに震えていることに気づいた。
それは恐怖によるものか、あるいは、志藤の言う「狼」への変貌が始まった喜びによるものか、彼自身にも分からなくなっていた。




