第1章:鋼鉄の浮き島
2025年、夏。東京湾を覆う霧は、かつての涼やかな朝霧とは似ても似つかぬ、重く灰色の粒子を含んだ「死の帳」だった。その沈黙を切り裂くように、戦艦大和の巨大な艦橋から「希望の歌」が響き渡る。大和放送――核震災の瓦礫の中で息を潜める生存者たちへ向けた、唯一の安寧の調べだ 。
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日向凱は、艦上の冷たい鉄板を力強く踏みしめた。復興庁の新人捜査官として、この「レジリエンス(強靭さ)の守護者」のバッジを手に入れるまで、どれほどの苦労があったか。多摩の過酷な避難民キャンプに残してきた妻と幼い娘の顔が、霧の向こうに浮かぶ 。彼女たちに、もう二度と放射能に汚染された配給食を食べさせたくない。その野心と、この街を救いたいという青臭い正義感が、彼の胸中で複雑に渦巻いていた 。
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「……デカいな」
凱は思わず独りごちた。目の前に鎮座するのは、核爆発の電磁パルス(EMP)を生き延びた、人類最後の砦である 。未来技術のバックアップ回路によって維持されたその通信機能は、壊滅した霞ヶ関に代わる暫定指揮権をこの艦上に集約させていた 。大和はもはや単なる兵器ではなく、再建される東京の「中心」だった 。
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「見惚れている暇があるなら、自分のバイタルサインを確認しろ。ドローンが見張っているぞ」
背後から響いたのは、重厚で、聞く者の魂を震わせるような低音だった 。
凱が振り返ると、そこには全身を黒の耐放射線防護仕様のレザージャケットで包んだ男が立っていた 。志藤蓮。復興執行官として伝説的な実績を持ち、瓦礫の街を力で統治する男だ。首元には、かつての栄光を誇示するようにゴールドチェーンが光り、その鋭い眼光は凱の心の奥底を見透かしているようだった 。
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「志藤執行官。本日より配属されました、日向凱です」
凱は最大限の敬意を込め、警察官時代の癖で「Sir」と言いそうになるのを飲み込んで一礼した 。志藤は鼻で笑い、特注のモンテカルロ――放射線遮蔽加工が施された重厚なアメ車――のキーを指先で弄んだ 。
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「お前が『三賢者』の推薦を受けた優等生か。バッジはピカピカ、心は真っ白。家族のために出世したい、だが手は汚したくない。……反吐が出るな」
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志藤は一歩詰め寄り、凱の胸元にあるバッジを指先で弾いた。
「いいか、日向。この街は今、二種類の人間に分かれている。瓦礫の下で震え、大和の歌に縋る『羊』か。あるいは、その羊を食らい、システムを動かす『狼』かだ」
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「私は、市民を守るためにここに来ました」
凱の反論は、志藤の豪快な笑いにかき消された。
「守る? 誰が誰をだ? 法なんてものは、核の炎と一緒に東京湾に沈んだんだよ 。今の東京を統治しているのは『ストリートの論理』だ。証明できないことは存在しない。それが真実だ」
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志藤はモンテカルロのドアを開け、顎で助手席を指した。
「今日1日で、この街の本当の姿を教えてやる。教科書には載っていない、再建の『裏側』だ 。羊の皮を脱ぎ捨てる覚悟があるなら、乗れ」
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凱は一瞬、躊躇した。大和の艦橋からは、今日も放射線量をリアルタイム・マッピングするドローンが、鴉のように黒い影を落として飛び立っていく 。この鋼鉄の浮き島の外には、核震災とM9級の地震、そして津波によって引き裂かれた、灰色のジャングルが広がっているのだ 。
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家族への誓いと、目の前の男への根源的な恐怖。凱は意を決し、助手席へと滑り込んだ。
「……お願いします」
「いい返事だ。……My Nigga(相棒)」
志藤がアクセルを踏み込むと、モンテカルロは大和の巨大なランプウェーを駆け下りた。背後で、大和の主砲が火災旋風を防ぐための衝撃波――消火弾を放ち、空気が激しく震えた 。
それは、凱にとっての長く、あまりにも過酷な「トレーニング・デイ(訓練の日)」の幕開けだった 。
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