第9章:番外編 恐怖の余韻と、芸術的な「円舞」
山田:「……部長、副部長。聞いてください。僕は今日、死線を越えました。野本さんの後ろに乗るということは、物理法則という名の荒波に放り出されるということだったんです」
山田くんは部室のソファに崩れ落ち、震える手で茶をすすりました。
橋本副部長:「おかえり、山田くん。無事に帰ってこれて何よりだ。野本さんの運転、そんなに激しかったの?」
山田:「激しいというか、不気味なんです! カーブのたびに野本さんが耳元で『私たちは今、一輪車です』とか『前輪が遠回りするのを許容してください』とか囁いてくるんですよ。バイクが斜めになってるのに、前輪が勝手にフラフラ動くのを『放っておけ』なんて……正気の沙汰じゃありません!」
野本:「山田さん、失礼な。私はただ、セルフステア機能がニュートラルに発揮されるよう、ハンドルをこじらずにいた分、そう感じただけです。最近のバイクは前輪荷重が大きく、意識してリヤステアを作らなければ、曲がり始めのレスポンスが鈍くなるのです」
重子:「でも野本さん、後ろに人が乗ってたら怖がらせないように走るのが普通じゃない?」
小宮部長:「……いいえ、面白いわ、山田くん。あなたの話を聞いていると、一つの情景が浮かんでくるわ」
それまで静かにクロッキー帳を広げていた小宮部長が、鋭い目で顔を上げました。
小宮部長:「あなたが感じたその『恐怖』は、実は完璧な調和への戸惑いなのよ。野本さんがやろうとしたのは、車体の中心を貫く『ロール軸』に二人を乗せ、ステアリングヘッドと軸を90度で直交させるという、極めて数学的な美学。あなたが『前輪が遠回りしている』と感じたのは、まさに前輪が後輪の軌跡と同心円を描こうとした、**ニュートラルステアという名の円舞曲**の序曲だったのよ」
山田:「ワルツ……? いや、僕にとってはただの絶叫マシンだったんですけど」
小宮部長:「いいえ。前輪が主役を譲り、あえて遠回りして後からついてくる。それはまるで、熟練の踊り子がパートナーの動きを完璧にトレースし、一瞬だけ遅れて影を落とすような、高度な抽象芸術だわ。野本さんは、バイクというキャンバスに、あなたという重りを加えて、より深い『リヤステアの色彩』を描こうとしたのね」
野本:「部長……。私の意図をそこまで汲み取っていただけるとは。感動しました。やはり、後輪の接地点を支点にしてスッと倒れ込む瞬間、私たちは魔法使いのホーキにまたがる自由を手に入れていたのです」
橋本副部長:「まあ、山田くんが『魔法』だと思ってたのは、地面との距離感だったみたいだけどね」
山田:「もう二度と乗りません……。次は一人で、地面を足で踏みしめながら『暇つぶし』をします……」
部室には再び、平和(と野本さんの熱を帯びた独り言)が戻ってきました。窓の外では、野本さんの次の実験台を待つかのように、夕闇が静かにロール軸を傾けていました。




