なくてもいい幕間 第三章:旋回の結びと、暇つぶしの極致
大学の「暇つぶしサークル」部室。野本さんは、ついに資料の最後のページを閉じ、深くため息をつきました。その表情には、一つの真理に到達した者だけが持つ、静かな充足感が漂っています。
野本:「……完成しました。これが、バイクと人間が一つに溶け合うための、最後のピースです」
山田:「ついに読み終えた? それで、最後は何て書いてあったの。やっぱり根性で曲がれってこと?」
野本:「いえ、山田さん。最後に必要とされるのは、根性ではなく『調和の確認』です」
野本さんは立ち上がり、部室のホワイトボードに大きな円を描きました。
野本:「これまで学んできた通り、後輪の接地点を支点にし、ロール軸に沿って車体を預ければ、前輪は自然に『セルフステア』で遠回りしながらついてきます 。このとき、無理にハンドルを切ったり体をひねったりしなければ、前輪と後輪のグリップが絶妙なバランスで安定する……。この状態こそが、旋回の『落ち着きどころ』なのです」
橋本副部長:「落ち着きどころか……。でも、そこからどうやって立ち上がるの? ずっと回ってるわけにもいかないでしょ」
野本:「副部長、その通りです。資料によれば、この旋回グリップが安定した瞬間に、前後輪のバランスが最も良くなります 。ここでようやく、ライダーは『曲がっている最中』の不安から解放され、しっかりと路面を捉える感覚を身体に覚え込ませることができるのです」
小宮部長:「なるほどね。不安がなくなれば、余裕を持って出口を見られるようになる。それが結果的に、スムーズな立ち上がりにつながるってわけね」
野本:「左様です。逆に、この安定状態を待てずに慌ててアクションを起こせば、再びバランスは崩れ、アンダーステアやオーバーステアという名の『不協和音』が響き渡ることになります」
数日後。いつものファミレス「ジョナサン」で、野本さんは富山さんと亀山さんに、今回の「研究」の総括を伝えていました。
富山:「つまり、バイクを操るっていうのは、結局『バイクを信じて任せる』ってことだったのね」
野本:「その通りです、富山さん。ハンドルをこじらず、後輪主体の動きを妨げず、ただ車体本来のロール軸に身を委ねる。人間が我を出さなければ、バイクは設計通りのニュートラルな性能を遺憾なく発揮してくれるのです」
亀山:「なんだか、人生の教訓みたいね。無理してコントロールしようとするほど、物事はうまくいかない。ふっと力を抜いたときに、自然と道が開ける……。野本さん、いい勉強になったわ」
野本:「私もです、亀山さん。バイクという乗り物は、ただの移動手段ではありませんでした。それは、いかに自分の余計な力を抜き、世界の理に適応するかを試される、終わりのない『暇つぶし』だったのです」
野本さんは、制服のポケットからバイクの鍵(のような形をしたキーホルダー)を取り出し、じっと見つめました。
野本:「後輪で乗り、ロール軸に乗り、前輪を放っておく 。この『ニュートラル』な感覚を身につければ、私は埼玉の風になれる気がします」
富山:「野本さん……かっこいいけど、まずは原付の免許の筆記試験、受かるといいわね」
野本:「……善処します」
窓の外では、野本さんの心象風景の中にある一台のバイクが、完璧なニュートラルステアで美しい円を描いていました。その軌跡は、どこまでも自由で、どこまでも穏やかでした。




