なくてもいい幕間 第一章:リヤステアという名の、静かなる旋回
埼玉にある、とある大学の一角。そこには、存在しているのかさえ怪しい「暇つぶしサークル」の部室があります。午後の柔らかな光が差し込む中、野本さんは一冊の分厚いバイク解説本を食い入るように見つめていました。
野本:「……なるほど。最近のレプリカは、放っておくと曲がらない、ということですか。由々しき事態です」
橋本副部長:「どうしたの、野本さん。そんな難しい顔して。ついにバイクの免許でも取りに行く気?」
橋本副部長が、部室の隅で古いラジオを修理しながら声をかけました。
野本:「いえ、副部長。私はただ、この『リヤステア』という言葉の響きに、深い哲学を感じていただけです。どうやら今のバイクは、昔のバイクに比べて前輪の荷重が増え、直進安定性が高まりすぎているようなのです」
小宮部長:「あら、いいじゃない。哲学。暇つぶしには最高のスパイスね。そのリヤステアとやら、私にも教えてちょうだい」
小宮部長が、美大志望だった頃の名残を感じさせる鋭い目つきで、野本さんの手元を覗き込みました。
野本:「部長。資料によりますと、昔のバイクは後輪荷重が大きく、自然に曲がることができました。しかし最新のバイクは、軽快なハンドリングと安定性を求めて、フロント周りに重いエンジンやパーツが集中しているそうです。その結果、テコの原理が弱まり、前輪の反応が鈍くなっているのだとか」
山田:「へえ、進化してるはずなのに、かえって曲がりにくくなってるってこと?」
部室に入ってきた山田くんが、興味なさそうに口を挟みます。
野本:「そうです、山田さん。だからこそ、ライダーは意識的に『リヤステア』、つまり後輪を主役にして曲がる感覚を呼び覚まさなければならない。さもなくば、バイクはいつまでも直進しようとする孤独な鉄塊と化すのです」
重子:「孤独な鉄塊……野本さん、表現が重いわよ」
重子さんが苦笑いしながら言いました。
小宮部長:「それで? 具体的にはどうすればいいの? 絵を描く時だって、筆先じゃなく軸が大事だけど、バイクも同じなの?」
野本:「おっしゃる通りです。資料によれば、多くのライダーは『曲がろう』と焦るあまり、ハンドルをこじったり、車体を無理にひねったりしてしまいます。これはリヤタイヤの自然な動きを妨げ、レスポンスを悪化させる一番の要因だそうです」
橋本副部長:「ああ、わかる気がする。焦ると余計な力が入っちゃうんだよね」
野本:「ええ。最も素直で正確なリーン(傾き)とは、車体が倒れていくとき、リヤタイヤの接地点を支点にして、イン側にスッと倒れ込む動きです。これを、この資料では『魔法使いのホーキにまたがっているようなイメージ』と表現しています」
小宮部長:「魔法使い……! 急にロマンチックじゃない」
野本:「はい。まずは前輪の存在を忘れ、後輪と車体が一枚の板のように結ばれていると想像するのです。まるで一輪車に乗っているかのように、自分の真下に後輪を感じる。それがリヤステアの基本です」
数時間後。アルバイト先のファミレス「ジョナサン」の休憩室。野本さんは、同僚の富山さんと亀山さんに、部室で得た知識を披露していました。
富山:「へえ、一輪車ねえ。野本さん、それってトレイを運ぶときと似てるかも。手先だけで支えようとするとグラつくけど、自分の重心の真下にトレイがあると思うと安定するじゃない?」
野本:「富山さん、素晴らしい洞察力です。まさにその通りです。後輪、つまり自分の座っているシートの下にすべての動きが集約されていると感じることが、何より先決なのです」
亀山:「あら、私にもわかるわ。お尻で後輪の動きを感じるってことでしょ? お尻は鈍感なようでいて、実はすごく敏感なんですものね」
野本:「亀山さん、その通りです。シートを介してお尻が路面の振動や後輪の向きを感じ取る。慣れてくれば、お尻と後輪の位置関係が手に取るようにわかるようになります。バイクを『後輪で乗る』ことができれば、最新のどんなバイクでも、まるで自分の足のように操れるようになるはずです」
富山:「でも野本さん、具体的にどうやってその『リヤステア』の状態を作るの? 難しい技術が必要なんでしょ?」
野本:「いえ、富山さん。一番大事なのは『邪魔をしないこと』です。バイクをリーンさせるとき、無理な力を入れず、後輪の接地点を支点にスッと車体を預ける。すると、後輪にしっかりと荷重がかかり、バイクは内側へ向こうとする意志を持ち始めます。これが、リヤステアの第一歩です」
野本さんは、手に持っていた湯呑みをバイクの車体に見立て、ゆっくりと傾けてみせました。
野本:「もし、ここでハンドルを強く握りすぎたり、体を不自然にひねったりすれば、魔法は解けてしまいます。後輪の声を聴き、その自然な旋回を許すこと。これこそが、現代のバイクを乗りこなすための、静かなる抵抗なのです」
亀山:「……野本さん、なんだか今日は一段と格好いいわね」
野本:「いえ、私はただ、暇つぶしに真理を求めているだけです」
野本さんは静かに茶をすすりました。しかし、リヤステアの奥深さはこれだけではありません。後輪が主役となったとき、今度は「前輪」がどのように応えてくれるのか。その新たな問題が、次なる暇つぶしの種として、野本さんの頭をもたげ始めていました。




