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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン27

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第六章:門の向こうの静寂(最終章)



地下街区の中枢――それは“広場”と呼ぶには狭く、“通路”と呼ぶには人の匂いが濃すぎた。

配給所の小窓、医療区画の白い布、充電の順番を待つ蓄電池の列。ここでは銃声が鳴らない代わりに、咳が鳴る。泣き声が鳴る。金属が冷える音が鳴る。生活という音が鳴る。


門番は紙を受け取ると、折り目を指でなぞってから、封蝋を確かめた。

目は笑っていない。笑う余裕のある人間は地上へ行く。ここに残るのは、笑わなくても守りたいものを持つ人間だけだ。


「……確認する」

その一言で、私はようやく自分の喉が乾いていることに気づいた。


ケースを外した背中が軽い。軽すぎて、逆に怖い。

走っている間は、追跡者が世界の輪郭を決めてくれた。逃げる、曲がる、押しつける、耐える。

だがここに着いた瞬間、輪郭が消える。目的が消える。

目的が消えると、体は“余白”に耐えられない。余白は思考を呼び、思考は恐怖を呼び、恐怖は後から心臓を締める。


私は壁にバイクを寄せ、エンジンを切った。

静寂が落ちる。

その静寂の中で、上から……かすかに、回転翼の音がした。


ドローンだ。

地下まで来たのか? いや、来ていない。来られない。

だが入口で旋回し、監視を続けている。狩りを諦めたのではなく、獲物が巣に入ったことで“次の収穫”の計算に移ったのだ。


門番が紙を小さな端末にかざす。

端末が一度だけ赤く点滅し、次に鈍い緑へ変わった。

緑――この街区にとって、緑は命の色だ。

配給と医療のリストが更新される。名簿が変わる。名簿が変わるだけで、誰かが生きる確率が変わる。


「間に合った」

門番の声は低く、乾いていた。感謝はない。祝福もない。

ただ、事実だけがあった。


私は頷いた。頷いただけで膝が震えた。

震えを見られるのが嫌で、私はヘルメットを脱がずにいた。

ヘルメットを脱ぐという行為は、ここでは“武装解除”だ。武装解除した瞬間、人は人になる。人になった瞬間、崩れる。


「追っ手は?」

門番が聞く。


「一台。上手い」

私はそう答えた。

“上手い”という言葉は、ここでは呪いに近い。上手い奴は生き残る。生き残る奴は狩る側に回る。狩る側は、生活を壊す。


門番は顎で奥を示した。

「ここからは歩け。……走る音は、子どもを起こす」


私はバイクを押し、狭い通路を進む。

通路の天井は低い。壁には落書きがある。数字と記号――“配給日”と“分配比率”の暗号だ。

この街区は、企業のデータベースから切り離された。だから人間が、人間の手で帳簿を回す。

それは原始的で、非効率で、しかし死ににくい。企業の監視社会が崩れたあと、人は“非効率なもの”に救われる。 


奥で、子どもが咳をした。

その音に、私の胸が少しだけ熱くなる。

熱くなるのに、同時に冷える。

私はこの街区に“希望”を持ち込んだのかもしれない。だが希望は、狙われる。希望は、いつも銃口を呼ぶ。


配給所の横、薄いカーテンの向こうに医療区画があった。

そこに、白い髪の女が立っていた。

医師ではない。医師はもう、免許という概念と一緒に死んだ。

だが彼女の手は、医師の手だった。迷いがない。触れ方が静かで、離し方が速い。


「あなたが運び屋?」

女は私のヘルメットを見て言った。目線がブレない。


「……そう」

私は喉の乾きを押し込んだ。


「ありがとう。名簿が更新される。今日から、あの列の子が“登録”になる」

女は医療区画の隅を指した。薄い毛布の下、子どもが二人、寄り添って寝ている。

寝ているというより、電池が切れたみたいに沈んでいる。


私はそこから目を逸らした。

逸らすとき、罪悪感が一緒に付いてくる。

私は運び屋で、救済者ではない。救済者の真似をすると死ぬ。死ねば、次の紙は届かない。


そのとき、入口の方で騒ぎが起きた。

短い怒号。金属が擦れる音。

そして――エンジンの空ぶかしが、地下の壁に反響した。


来た。

追跡者が、入り口の境界まで踏み込んだのだ。

撃てない場所だと分かっていても、踏み込む。踏み込めば、人は怯える。怯えれば秩序が崩れる。崩れた秩序の中で、企業はまた“保護”を名目に支配を戻す。


女が言った。

「ここで撃てば、彼は仕事を失う。でも、仕事を失う程度で止まる男じゃない」


門番たちが集まり、通路に鉄板を引きずり出す。

バリケード。

銃ではなく、物理で止める。物理は嘘をつかない。


私はバイクから手を離した。

離した瞬間、背中が軽すぎて、逆に足が地面に根を下ろした。

――走らないのか?

走るべきだ。走るのが私の仕事だ。

だがここで走れば、追跡者は「獲物がいる」と確信し、踏み込む理由を得る。


私は一歩、入口側へ出た。

門番が私を制止しようとしたが、私は首を振った。


「俺が出る」

声が自分のものじゃないみたいに聞こえた。


入口は、薄い鉄扉一枚で地上と繋がっている。

扉の隙間から、冷たい空気と、化学的な霧の匂いが流れ込んでくる。

その向こうに、影が立っていた。ヘルメット。黒いジャケット。銃ではなく、短いバトン。――体当たりの道具。


「終わりだ、運び屋」

彼の声は冷静だった。冷静な奴がいちばん怖い。

「その紙はもう届いた。お前はもう価値がない」


私は返事をしない。

返事は交渉を始める合図になる。交渉は時間を与える。時間は相手の計算を助ける。


私がやるべきことは一つ。

この入口で、彼の“上手さ”を無力化すること。

上手さは、速度とラインと余力に依存する。

つまり、余力を使わせれば勝てる。


扉が開いた瞬間、彼は踏み込んできた。

狙いは私の肩。バトンで叩いて崩し、倒れたところを引きずり出す。

地下の入口は狭い。狭い場所では、上手さが武器になる。


だが狭い場所には、狭い場所の弱点がある。

“同じ角度で走り切る”必要がない。

ここでは、走り切るより、“止める・向ける・抜ける”の三つが強い。


私はバイクにまたがらない。

代わりに、足元の金属板を蹴り、鉄板のバリケードを少しだけずらした。

ずらすと、通路の床に段差ができる。

段差は、走る者の敵だ。特に、攻撃の姿勢で踏み込む者の敵だ。


追跡者は見逃さなかった。

見逃さなかったからこそ、踏み方が変わった。

踏み方が変われば、重心が変わる。重心が変われば、一瞬だけ“余力がゼロ”になる。


その一瞬に、私は動いた。

バイクを倒し込む動きではない。

ただ一歩、横へ。

一歩横へずれるだけで、彼のバトンは空を切る。


空を切った瞬間、彼は体勢を戻そうとする。

戻すために、もう一歩踏み込む。

踏み込んだ足が、段差にかかった。


小さなつまずき。

だが戦闘は、小さなつまずきで終わる。


彼の肩が壁に当たり、バトンが落ちる。

落ちたバトンが床を転がり、鉄板に当たって乾いた音を立てた。

その音が、地下全体に響く。

人々の息が止まる音が、さらに上に重なる。


私は拾わない。

拾えば、こちらが武器を持つことになる。武器を持てば、企業は“暴力”を理由に侵入できる。

私はただ、彼の足元にあるバトンを蹴って、扉の外へ押し返した。


「帰れ」

それだけ言った。


追跡者は笑った。

笑いながらも、目は笑っていなかった。

「……お前は上手いな」

彼はそう言って、後退した。

後退しながら、上空へ視線を投げる。ドローンに合図しているのが分かる。ここでの収穫は失敗。だが次がある。次の運び屋を狙う。次の紙を狙う。

狩りは終わらない。


扉が閉まった。

静寂が戻った。

その静寂の中で、私は初めてヘルメットを脱いだ。


空気が冷たい。

冷たいのに、涙が出そうになる。

泣く理由が分からない。生き残ったからか。守れたからか。

あるいは――走る理由が、今日一日ぶん、燃え尽きたからか。


女が言った。

「あなたは“上手さ”で勝ったわけじゃない。上手さを、ここで使わなかったから勝ったのよ」


私は答えられなかった。

答えられない代わりに、通路の奥へ目を向けた。

子どもが毛布の下で寝返りを打つ。

小さな体が、少しだけ楽そうに動く。

それだけで、世界が一ミリだけ修正された気がした。


地上は監視と企業国家の論理で動く。

数字と信用と効率で、人の生死が決まる。

地下は違う。地下は、遅くて、不器用で、しかし“人が人を数え直す”場所だ。

名簿を更新し、手で配り、手で治し、手で守る。

その非効率が、支配のアルゴリズムを腐らせる。 


私はバイクのハンドルに手を置いた。

まだ温かい。まだ走れる。

走れるという事実が、怖い。

走れるということは、また狙われるということだ。

だが、走れなければ、次の紙は届かない。


門番が言った。

「次は三日後だ。北の街区へ。道はもう“狩場”になっている」


私は頷いた。

頷きながら、胸の奥で、あの感覚をもう一度探す。

黒い接地。張り。余力。

ためらいを入力に変換しないこと。

同じ角度のまま走り切ること。

――そして、走り切らないときは、走り切らないと決めること。


扉の向こうから、かすかな回転翼の音がまだ聞こえる。

世界は終わっていない。

終わっていないから、物語も終わらない。


それでも私は、今夜だけは、バイクを壁に立てかけた。

子どもたちの呼吸が続くかぎり、私は“運び屋”でいられる。

運び屋でいられるかぎり、このディストピアの世界線にも、わずかな修正が入りうる。


そしてその修正は、革命の言葉ではなく、

たった一枚の紙と、

曲がり方の技術で起きる。


(第六章・了)

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