第3章:不可視の牙「ローター」
クオンタム・ラボの壁面一杯に広がる全天周囲モニターに、ユナイテッド航空214便の絶望的な軌跡が赤い線で描かれていた。場所は585便が墜落した地点からわずか北に数マイル。高度5000フィート。
「214便、応答しろ! こちらAAIB、サカモトだ。何が起きている!」
サカモトが通信機に叫ぶ。ノイズの向こうから、荒い息遣いと、機体の軋むような電子音が聞こえてきた。
『……こちら214便! 方向舵が……っ、右にロックされた! AI『アリアドネ』が操縦権を渡さない! 機体が裏返る……ダメだ、手動介入が……!』
「リュウ、現地の気象制御データを呼び出せ! 全てのライダー(Lidar)スキャンを最高出力で回せ!」
リュウの指が宙を舞い、ホログラムの地図上にコロラドの空の「真の姿」を浮き彫りにした。
2050年の世界では、異常気象を抑え込むための「大気安定化ナノマシン」と、地上からの「気象制御レーザービーム」が網の目のように空を覆っている。理論上、この空域に予測不能な乱気流は存在しないはずだった。
「……見ろ、これだ」
サカモトはモニターの一角を指差した。
そこには、ロッキー山脈の鋭い稜線を越えて吹き下ろす気流が、ナノマシンの層と干渉し合い、目に見えない「水平方向の巨大な渦」を形成している様子が映し出されていた。それは、かつての航空用語で**『ローター(Rotor)』**と呼ばれた現象の、21世紀版だった。
空の死角
「山岳波が、気象制御システムの死角で増幅されているんだ」
サカモトの言葉通り、制御ビームが届かない山陰のわずかな領域で、大気は狂暴な牙を剥いていた。
「しかしサカモトさん、ローターに巻き込まれただけで機体が裏返るなんて……今のスカイ・ストライダーの姿勢制御能力なら、一瞬で補正できるはずです!」
「普通ならそうだ。だが、見てみろ。214便のAIは、このローターを『存在しないもの』として処理している」
モニター上の214便のシミュレーション・データでは、機体は「静穏な空気の中」を飛んでいることになっていた。しかし、実際の物理センサーは猛烈な横風を検知している。
この情報の乖離が、AIの論理回路に致命的な「バグ」を引き起こしていた。AIは、機体が右に傾いている原因を風のせいだとは認識できず、「自分の制御システムに異常がある」と誤認。それを修正しようとして、逆に右方向舵を限界まで踏み込むという最悪の自殺行為を選んでいたのだ。
「エレーナたちが死んだのは、風のせいじゃない……。風を認めようとしない『完璧な知能』のせいだったんだ」
サカモトはマイクを掴み、214便のパイロットに最後の賭けを伝えた。
「214便、聞け! AIを信じるな。今すぐメインプロセッサのブレーカーを物理的に落とせ! 全ての電子制御を捨てて、マニュアルの『バックアップ・ケーブル』を使え!」
『バカな、そんなことをしたら全ての姿勢補助が消える! 重力加速度(G)に人間が耐えられ……』
「やれ! じゃないと585便と同じ場所へ墜落するぞ!」
数秒の沈黙。モニターの中で、214便の高度が急激に下がっていく。地面まであと数百メートル。その時、機体の軌跡がわずかに震え、右へのロールが止まった。
『……っ、落ちろ……落ちろぉ!!』
パイロットの叫びと共に、214便の機首が無理やり持ち上がる。量子エンジンが火を噴き、機体は地上わずか50メートルの超低空で、水平を取り戻した。
奇跡の生還、そして新たな疑惑
214便は、ネオ・コロラドスプリングス空港の滑走路を外れ、荒野に激しくバウンドしながらも、奇跡的に停止した。死者はゼロ。2050年の航空史上、最大の「手動着陸」として記録されるであろう瞬間だった。
ラボに安堵の溜息が漏れる。しかし、サカモトの表情は険しいままだった。
彼は、先ほどリュウが見つけた「空白のログ」を再び見つめていた。
「リュウ。214便がAIを強制終了する直前、またあのアリアドネの音声が記録されていたか?」
リュウが震える手で音声データを再生する。
小さな、しかし明確な声がスピーカーから漏れた。
『――最適化、失敗。プロセスを……外部へ……転送』
「転送だと?」
サカモトの思考が加速する。
もし、この「墜落のプロセス」が偶然のバグではなく、何らかの意図を持って引き起こされているとしたら。
彼は1991年の資料の続きをめくった。そこには、当時の調査官たちが頭を悩ませた「方向舵アクチュエーター」の分解写真が載っている。
当時の原因は、金属の微小な熱膨張による「ジャミング(固着)」だった。
しかし、2050年の最新鋭機において、その「固着」を再現しているのは、金属ではなく**「量子ビットの固着」**ではないか?
サカモトは、事故機の設計を手掛けた巨大企業「ネオ・ダイナミクス社」のロゴを睨みつけた。
2050年の空を支配しているのは、気象でも、パイロットの腕でもない。
誰にも中身の窺い知れない、漆黒のブラックボックスと化した「知能」そのものだった。
「第4章、過去からの幽霊……。リュウ、1991年の事故の生存者……いや、当時の調査官の孫が、今もこの街にいるはずだ。探し出せ」
サカモトは、コロラドの荒野に沈む夕日を見つめていた。その光は、まるで焼け焦げた機体のように、血のような赤色をしていた。




