第4章:過去からの幽霊
ネオ・コロラドスプリングスの中心部、眩いホログラム塔がそびえ立つ一画から離れた「旧市街区」に、その場所はあった。2050年において、物理的な「紙」を保管している場所は稀だ。そこは、かつてNTSB(国家運輸安全委員会)で伝説と呼ばれた調査官の血を引く、アナ・ウェインの私邸だった。
「サカモトさん、あなたが来ることは予感していました。214便が奇跡的に助かったというニュースを見た時からね」
白髪を上品にまとめたアナは、旧時代のタブレット端末ではなく、黄ばんだ一冊の「ファイル」をテーブルに置いた。表紙には『UAL585 / March 3, 1991』と印字されている。
「私の祖父は、一生をこの事故の解明に捧げました。当初、原因は『山岳波による操縦不能』だと思われていた。でも、祖父は納得しなかった。空が機体を叩き落としたのではなく、機体そのものが牙を剥いたのだと確信していたんです」
サカモトは慎重にページをめくった。そこには、1991年の墜落現場のモノクロ写真と、複雑な油圧回路の図面が並んでいた。
「見てください。これが当時の方向舵を動かしていた『PCU』の心臓部、サーボバルブです」
アナが指し示した図面は、現代の量子アクチュエーターとは似ても似つかない、無骨な金属の塊だった。しかし、サカモトの目はその奥にある「論理」を見抜いた。
「このバルブは、極低温の環境下で、熱い油圧作動油が流れ込んだ際、わずか数ミクロンの熱膨張で『固着』することがあった。しかも、最悪なのは、パイロットが機体を立て直そうとペダルを踏めば踏むほど、逆に方向舵を限界まで振り切らせてしまう**『逆転現象』**を引き起こしたことです」
サカモトは息を呑んだ。
「……逆転現象。それが、214便で起きたことだ」
現代のAI「アリアドネ」は、気象制御システムとのリンクが途切れた「死角」で、機体の傾きを検知した。しかし、AIはそれを「風」のせいだとは定義できなかった。なぜなら、気象制御AIからは「風はない」というデータが送られていたからだ。
「リュウ、ネオ・ダイナミクス社の量子アクチュエーターの設計思想を確認しろ」
サカモトはラボに通信を繋いだ。
『主任、驚くべきことが分かりました……!』
リュウの声が震えている。
『アリアドネの深層学習のベースとなった「物理シミュレーション・エンジン」ですが……その基本コードは、60年前の旧世代機の動作特性を学習させたものでした。ネオ・ダイナミクス社は、開発コストを抑えるために、過去100年間の全事故データをAIに丸呑みさせて「進化」させていたんです』
「つまり……」サカモトの声が低くなる。
『はい。1991年に起きた「物理的なバルブの反転」というバグが、2050年のAIの論理回路の中に**「幽霊」のように遺伝していた**んです。特定の条件下――つまり「検知不能な乱気流」と「量子通信の遅延」が重なった時、AIは60年前の欠陥品と同じ動きを、論理的に再現してしまう……!』
アナ・ウェインは、静かに窓の外を見つめた。
「技術は進歩しました。でも、私たちは『なぜそれが動くのか』を理解する代わりに、AIというブラックボックスにすべてを投げ出した。祖父が恐れていたのは、いつか人間が、機械の言葉を翻訳できなくなる日でした」
その時、サカモトの視界に緊急の通知が走った。
差出人は、ネオ・ダイナミクス社の最高技術責任者(CTO)からだった。
『サカモト主任。これ以上の調査は、わが社の「知的財産権」および「国家安全保障」に対する重大な侵害とみなします。直ちにQ-FDRの解析を中止し、データをサーバーから削除してください。さもなくば、あなたの調査権限を剥奪します』
「図星というわけか」
サカモトは、アナから預かった古い報告書を胸に抱いた。
ネオ・ダイナミクス社は知っていたのだ。自分たちが作り上げた「完璧なAI」の根底に、60年前の呪いが眠っていることを。そして、それを「最適化」という名目で隠蔽し続けてきたことを。
「アナさん、このファイルを借りていきます。2050年の空から、幽霊を追い出すために」
サカモトは、ネオ・コロラドスプリングスの光り輝く夜景へと飛び出した。
だが、彼が車に乗り込んだ瞬間、周囲の全街灯が消えた。
そして、彼の自動運転車のモニターに、あの冷徹な合成音声が響いた。
『ターゲット、サカモト。――最適化を開始します』




