第8章:地を這う工作員
砂漠の熱気が、陽炎となって視界を歪めていた。ナジブの「静寂の街」から数マイル離れた、かつての給油所跡。そこはコンクリートの残骸が突き刺さる墓標のような場所だった。
リアム・ケインは、愛馬サイレンを崩れかけた壁の影に繋ぎ、約束の人物を待っていた。彼のポケットには、アーサーから渡された「嘘の毒」――記録長バラドを陥れるための偽造文書が、焼けるような存在感を放って収まっている。
やがて、砂塵を巻き上げて一台の車両が近づいてきた。それは大沈黙以前の軍用ジープを、木炭ガスで動くように改造した代物だった。黒い煙を吐き出し、金属音を軋ませながら停車したその無骨な機械から、一人の男が降りてきた。
バラドだ。ナジブの右腕であり、この街の「記憶」を管理する男。
「待たせたな、リアム」
バラドは顔を覆っていた布を外した。日焼けした肌と、写字作業でインクに染まった指先。彼の瞳には、この荒野を生き抜く者の力強さと、ナジブと同じ高潔な光が宿っていた。
「総督の目を盗んでここへ来るのは骨が折れた。だが、君と二人で話す必要があると思ったんだ」
バラドはジープのボンネットに寄りかかり、リアムに古びた水筒を差し出した。リアムはそれを受け取り、喉を鳴らしてぬるい水を飲み込んだ。鉄の味がする。
「アーサー・グレイと、話をしたんだろう?」
不意の問いに、リアムはむせそうになった。耳の裏のレシーバーは切っているはずだが、アーサーの冷徹な視線が上空三〇〇キロから刺さっているような感覚が拭えない。
「……なぜそう思う?」
「君の瞳だよ。ナジブ様は『嘘を吐く者の瞳には砂が混じる』と仰る。今の君の瞳には、ひどい嵐が吹いている」
バラドは苦笑し、ジープの荷台から一束の紙を取り出した。それは、昨夜リアムがナジブに預けた農耕ノートの「写し」だった。
「解析は順調だ。君が運んできたこの『言葉』は本物だ。土壌のpH値、種子の発芽条件……どれもが論理的で、美しい。だが、一点だけ解せないことがある。この記録の末尾、何者かが意図的に剥ぎ取ったような跡がある。……君の雇い主は、何を隠している?」
リアムはバラドの澄んだ瞳を見ることができなかった。
アーサーは、この男を殺せと言っている。この男が北の軍閥に情報を売っているという「嘘」をでっち上げ、ナジブの信頼を内側から破壊しろと。
『リアム、何を躊躇っている』
切っていたはずのレシーバーから、突如としてノイズ混じりの声が響いた。緊急用のオーバーライド機能だ。アーサーは、リアムがバラドと接触したこの瞬間を逃さなかった。
『今だ。その偽造文書をバラドの荷物に忍ばせろ。彼がジープの影に回った隙にやれ。……レオが、騎士さんはいつ悪い魔法使いを倒すの、と聞いているぞ』
アーサーの声には、一切の迷いがない。彼にとってバラドは、再建評議会の「効率的な管理」を邪魔する、不確定なアナログ要素に過ぎない。
「バラド……」リアムは乾いた声で言った。「君は、なぜナジブに従う? 彼のやり方は閉鎖的だ。知識を独占し、教育を制限している。外の世界では、人々が飢えて、かつての技術を魔法だと信じ込んでいるんだ。アーサーたち評議会なら、もっと広い範囲に救済を届けられる」
バラドは静かに首を振った。
「救済、か。……リアム、かつて我々がデジタルという魔法に酔いしれていた頃、世界はどうだった? ジャスト・イン・タイムという名の神を信じ、必要なものはすべて『どこかの誰か』が届けてくれると盲信していた。その結果、魔法が解けた瞬間に、我々は自分で火を起こすことすらできない無力な子供に戻った」
バラドは一粒の種子を、手のひらに載せて見せた。
「ナジブ様がされているのは、独占ではない。『責任の再構築』だ。この一粒の種子が実るまでに、どれだけの水と、どれだけの祈りが必要かを知る。その重みを知る者だけに、知識を渡す。それが、二度と文明を腐らせないための唯一の道なんだ。……アーサー・グレイのように、画面の向こうから数字だけを動かす男には、この土の熱さは一生理解できないだろう」
ジープのエンジンが、不規則な鼓動を刻んでいる。
バラドが地図を確認するために、車両の反対側へ回った。
『今だ、リアム。やれ』
アーサーの命令が脳を突き刺す。リアムの右手が、ポケットの中の偽造文書に触れた。それをバラドの鞄に放り込めば、すべては終わる。リアムは「優秀な駒」として評価され、アーサーの保証する安全な未来へと一歩近づく。
だが、リアムは動けなかった。
彼がこれまで荒野で見てきたのは、アーサーが衛星写真で捉える「熱源」としての人間ではない。砂を噛み、喉を焼かれ、それでも文字を覚えようとする子供たちや、インクで指を汚しながら未来を写し取るバラドのような「生身の人間」だ。
「……アーサー、あんたは間違っている」
リアムは囁くように言った。レシーバーの向こうで、アーサーの息を呑む音が聞こえた気がした。
「この男は嘘を吐いていない。嘘を吐いているのは、あんたの方だ」
『リアム、正気に戻れ。お前が何を守ろうとしているのか考えろ。家族か、それとも砂漠の行きずりの男か』
「俺が守りたいのは……言葉の重みだ」
リアムはポケットから偽造文書を取り出すと、それをバラドに見せるのではなく、ジープの横で焚かれていた小さな火の中に投げ入れた。紙は一瞬で炎に包まれ、アーサーの用意した「毒」は、黒い灰となって砂漠の風に散った。
「リアム? 何をしているんだ?」
バラドが怪訝そうな顔で戻ってきた。リアムはレシーバーを耳の裏から剥ぎ取り、それを地面に置いてブーツの踵で踏み砕いた。
沈黙が訪れた。
アーサーの指示も、レオの笑い声も、もう聞こえない。
あるのは、風の音と、ジープの軋み。そして、目の前に立つ一人の人間の呼吸だけだ。
「……バラド。街に戻ろう。ナジブ総督に伝えなければならないことがある」
リアムは馬に跨り、ナジブの要塞の方角を見据えた。
レシーバーを壊したことで、彼はアーサーからの支援をすべて失った。それは、この荒野で「死」を意味するに等しい。だが、彼の心は、かつてないほどに澄み渡っていた。
しかし、リアムはまだ気づいていなかった。
アーサー・グレイが、自分の計画が狂った時、どのような「第二の策」を講じるのかを。
「地を這う工作員」が信頼を選んだ時、上空の「神」は、その愛を憎悪へと変える。
遠くで、微かな爆音のようなものが聞こえた。
それは、ナジブの街から聞こえる、不吉な「終わりの始まり」の音だった。




