第7章:嘘の毒
「静寂の街」の城壁の外、砂丘が波のように連なる境界線近く。リアム・ケインは、愛馬サイレンを岩陰に繋ぎ、一人で夜の荒野に立っていた。
耳の裏に仕込んだ超小型レシーバーを、再び起動させる。昨夜、ナジブの前で物理的に切断したはずの通信を、彼はあえて自らの手で修復していた。ナジブの「誠実さ」に打たれながらも、リアムの奥底にある「真贋官」としての本能が、アーサー・グレイが隠し持っている「情報の断片」を放置することを許さなかったからだ。
「……アーサー。聞こえているんだろう」
リアムは、砂漠の風に声を奪われないよう、耳に手を当てて囁いた。その姿は、傍から見れば、虚空に向かって独り言を漏らす狂人のように見えたかもしれない。だが、上空三〇〇キロを通過する監視衛星の赤外線レンズは、リアムの唇の動き一つさえも見逃さない。
『ああ、ようやく繋がったな。反抗期は終わりか、リアム』
アーサーの声は、驚くほど平穏だった。背後からは、陶器が触れ合う音と、小さな女の子の笑い声が聞こえてくる。彼は今、地下の聖域で、家族と共に日曜日のブランチを楽しんでいる最中なのだろう。
『ナジブに洗脳されたかと思ったよ。あのアナログの説教師は、人心を掌握する術に長けているからな。……だが、お前は賢明だ。彼が提示する「尊厳」では、腹は膨らまないことを理解している』
「ナジブは、あんたが情報を加工していることを知っていたぞ、アーサー」リアムは吐き捨てるように言った。「あの農耕技術のノート……欠けている後半の数ページには、何が書いてある? 土壌の調整か、それとも特定の化学物質の配合か」
『フム。……レオ、シロップをかけすぎるなと言っただろう』
アーサーは一瞬、息子に注意を与え、それから再びリアムへと向き直った。その切り替えの速さが、リアムの神経を逆なでする。
『教えてやろう。あのノートに記された種子は、我々評議会が提供する特定の「触媒」なしでは、二世代目以降の収穫が激減するように遺伝子操作されている。ナジブがどれほど不眠不休で写本を作り、子供たちに暗唱させようと、我々が握っている「最後の鍵」がなければ、彼の街はやがて飢える。……それが、ジャスト・イン・タイムを捨てた世界に対する、現実的な管理というものだ』
「あんたは、飢えを武器にして世界をサブスクリプションにしようとしているだけだ」
『言葉が過ぎるな。私は秩序を提供していると言ってほしい。……さて、リアム。お前の不始末を帳消しにするチャンスをやろう。今すぐナジブの元へ戻り、彼に一つの「事実」を伝えろ』
「事実だと?」
『「毒」と言い換えてもいい』
アーサーの声から温もりが消え、事務的なトーンへと変わった。
『ナジブの右腕である記録長、バラドだ。奴が、旧時代の兵器貯蔵庫の位置を記した地図を、北の軍閥に売ろうとしているという証拠を流せ。物理的な通信記録の断片を、お前の荷物の中に忍ばせてある。それをナジブに見せるんだ』
リアムは息を呑んだ。バラド。昨日、ナジブの傍らで黙々と写本を整理していた、あの実直そうな男か。
「……それは真実なのか? それともあんたが捏造したデマか」
『真実かどうかなど、今の世界で何の意味がある?』アーサーは冷淡に言った。『ナジブは「嘘」を何よりも憎む男だ。身近な人間に裏切られたと知れば、彼の「信頼のネットワーク」は内側から崩壊する。疑心暗鬼になったナジブは、街を閉鎖し、外部との接触を断つだろう。そうなれば、民衆は救いを求めて我々に縋るしかなくなる。……お前がやるべきことは、ナジブの耳元でその「毒」を囁くだけだ』
「断る。ナジブは嘘を見抜く。あんたの作った偽造工作など、彼の前では通用しない」
『通用させるのがお前の仕事だ、リアム。……それとも、レオが描いた「砂漠の騎士」の絵を、お前の遺影にしたいか?』
アーサーの声に、明確な殺意が混じった。同時に、夜空の彼方、星の動きとは異なる一筋の光が、リアムの頭上を通過していくのが見えた。監視衛星が、攻撃誘導用のレーザーを照射し始めている合図だ。
リアムは耳に手を当てたまま、背後に気配を感じて振り返った。岩陰から、ナジブの衛兵たちがこちらを凝視している。街の境界から勝手に出たリアムを、彼らは不信の目で見つめていた。
「……わかった。指示に従う」
リアムはそう囁き、レシーバーを物理的に隠すようにして、馬の元へと歩き出した。
彼の胸の内には、今、アーサーから渡された「嘘の毒」が黒々と渦巻いている。
もしこの嘘をナジブに告げれば、バラドは処刑され、ナジブの聖域は血に染まるだろう。だが、もし真実を貫けば、アーサーは衛星からの精密爆撃でこの街を地図から消すか、あるいは農耕技術の「鍵」を永遠に封印し、数百万人の人間を餓死させる。
情報とは、重みである。
リアムは、かつて自分がデジタル情報の「真偽」を判定するだけの存在だった頃を思い出していた。当時は、画面上のデータを削除するだけで済んだ。だが今、彼の手の中にある一編の「嘘」は、生身の人間の命を、その重みごと押し潰そうとしている。
街の門へと戻るリアムを、衛兵たちが無言で迎えた。
ナジブは宮殿の奥、キャンドルの光に包まれた図書室で、彼を待っているはずだ。
「リアム・ケイン」
門をくぐる際、バラドが声をかけてきた。彼は手にインクの染みた羊皮紙を持ち、疲弊しながらも誇らしげな微笑みを浮かべていた。
「昨日の農業ノートの解析が終わった。総督がお呼びだ。……これで、来年の春には、この砂漠にも本物の小麦が実る。あなたの運んできた言葉が、奇跡を起こすんだ」
バラドの澄んだ瞳を見て、リアムはレシーバーの奥で笑っているアーサーの顔を思い浮かべた。
この男を、殺せというのか。
この希望を、嘘という毒で腐らせろというのか。
リアムは何も答えず、ただ重い足取りでナジブの元へと向かった。
彼のポケットの中には、アーサーが衛星通信で「定着」させた、精巧な偽造文書が潜んでいる。
ナジブの部屋の前に着いた時、リアムは空を仰いだ。
分厚い石造りの天井の向こう、見えない「神の目」が、彼の決断を冷酷に待ち構えている。
「総督。……お話ししなければならないことが、あります」
リアムの声は、自分でも驚くほど乾いていた。
誠実さという名の盾を捨て、嘘という名の刃を握る。その瞬間、彼は自分が守ろうとしていた「文明」の定義が、音を立てて崩れ去るのを感じていた




